岡山の旅再開:鬼ノ城へ [ふらり旅・イベント]
今日から岡山旅行記に戻ります。
旅の2日目。9月17日の朝からスタート! 今日は鬼ノ城に行くよ!
*
お城というとイメージするのは戦国時代(だいたい15世紀〜)からのお城だと思います。でも今回のお城は古代のお城。
お城の前身は弥生時代(前10世紀〜後3世紀中頃)まで遡ります。
農耕が盛んになって貧富の差が生まれて争いが起こるようになって、集落の周りに土塁を築いたのが始まりって言われてます。
そして時は流れ、飛鳥時代(592年〜710年)。
権力を握っていた蘇我氏が中大兄皇子 & 中臣鎌足によって滅ぼされて、中大兄皇子が天智天皇になって政治をおこなっていた頃……
大陸では戦争が起こっていました。百済 vs 新羅・唐連合軍という戦い。
天智天皇は百済のために兵を出したのだ。ところがこれが見事なまでの惨敗!!
歴史の授業で習う「白村江の戦」(663年)でございます。私の頃は「はくすきのえ」って言っていたけど、今は「はくそんこう」って言うのかな。
この大敗で天智天皇はビビったのだ。
唐が倭(日本)に攻めてくるかもしれない!!
そこで天智天皇は、主に西日本を中心に防衛施設を造り始るの。これが現代に続く城の始まり。
白村江の戦いのあと、6つの城が造られました。
百済は滅亡してしまったので、大勢の百済人が日本に渡り帰化。彼らの助言をもとに城が造られたと思われます。
長門城(現在の山口県あたり)
大野城(現在の福岡県あたり)
基肄城(きいじょう・現在の福岡県〜佐賀県あたり)
高安城(現在の奈良県〜大阪府あたり)
屋嶋城(現在の香川県あたり)
金田城(現在の長崎県対馬あたり)
ちなみに「城」という文字が使われるようになったのは、日本書紀によると 664 年(天智3)の記述から。それ以前には「垣」や「塁塞」という言葉が使われていたようですわ。このことからも「城」は唐水軍や新羅水軍に備えるためのものだったことが推測されるのでした。
(※ 歴史マニアさんは、スサノオが日本で最初の和歌を詠んだのを知ってるわけで、そこにも出てくる「垣」は平和なものではなかったんじゃないかな〜と、いろいろあの和歌を深読みしちゃうなあ。だって垣は垣でも八重垣よ。八重よ。どんだけ守り固めるの?)
これらの古代山城は外敵に備えて築かれた「朝鮮式山城」と言われるの。
東北の蝦夷に対する侵略 (笑) 拠点は「城柵」。
そして文献資料が無く、築城の契機や由来が分からないものは「神籠石山城(こうごいしやまじろ)」って言います。
今回訪れた鬼ノ城は、構造は「朝鮮式山城」なんだけど、温羅伝説としては名前が出てくるものの、日本書紀のような公の史料が一切残っていないし由来も分からないので「神籠石山城(こうごいしやまじろ)」に分類されます。
*
朝早くにホテルはチェックアウト。岡山駅構内のコインロッカーに大きな荷物は預けて、6時37分の列車に乗って目指すは総社。
来ました、総社市。古名は阿曾(あそ)。
たたら製鉄の火で昼夜明るかったので阿曾。
鬼ノ城へはタクシーで行くのだ。タクシー会社には事前に予約をしていたの。
鬼ノ城まで連れて行ってもらい、1.5 時間後に迎えに来て貰う計画。
どんどん山道を入っていきますよ〜〜。急カーブが続く山道をのぼっていきます。
せっかくなのでブレブレの様子も載せておこうw
7時30分に鬼ノ城の駐車場に到着しました。写真は去っていくタクシー。
ここから鬼ノ城があるところまで山登りw
今回は相方くんも居るし、スマホも元気なので心配なし!
朝早いので誰も居ません。
鬼ノ城へ向かう道の入口に「総社市鬼城山ビジターセンター」があって、概要などを勉強できる施設があるのですが、当然ながら開館前の時間ですから入れませんわw
朝早いので空気も気持ちが良い。
一応舗装されていたので歩きやすいです。
ちょっと道が分かりづらい箇所があったんだけど、それなりに進むことができました。
でも一人だったら違う方に進んで迷っていたかもしれないなあ。
看板が出てきたので、正しい道だったと分かって安堵^^
さあ、どんどん進もう〜!
しばらく歩いていると、遠くに復元された鬼ノ城の西門が見えました!
ほんとに山頂付近にあるんだ!!
分かりづらいと思うので、丸で囲ってみた^^
あそこまで行くよー!
「もちろんボクも居るよ」と、コロル2世w
ふと見ると、岡山が一望出来ます。
この鬼ノ城が建てられたと思われる 5〜8 世紀。
その頃は海だったんだって。此処から見下ろすと吉備の海が広がり、吉備の港に停泊する船が見えたんだねえ。
そんな古代に思いを馳せながら進んでいると看板発見〜!
鬼城山・西門を目指しますぞ。ちょっと息はあがっているけど、もう一踏ん張り!
時間にすると駐車場からここまで 10 分ちょっとだったと思うんだけどね(笑)
前日にタップリ歩いていたから足が疲れているっぽいww
鬼ノ城の全体図で見ると、西門は左上になります。
次回は、鬼ノ城の復元された西門の写真を紹介しますね〜!
*** 本日はポケGO とピクミンのイベントにつきブログ活動お休みします! ***
旅の2日目。9月17日の朝からスタート! 今日は鬼ノ城に行くよ!
*
お城というとイメージするのは戦国時代(だいたい15世紀〜)からのお城だと思います。でも今回のお城は古代のお城。
お城の前身は弥生時代(前10世紀〜後3世紀中頃)まで遡ります。
農耕が盛んになって貧富の差が生まれて争いが起こるようになって、集落の周りに土塁を築いたのが始まりって言われてます。
そして時は流れ、飛鳥時代(592年〜710年)。
権力を握っていた蘇我氏が中大兄皇子 & 中臣鎌足によって滅ぼされて、中大兄皇子が天智天皇になって政治をおこなっていた頃……
大陸では戦争が起こっていました。百済 vs 新羅・唐連合軍という戦い。
天智天皇は百済のために兵を出したのだ。ところがこれが見事なまでの惨敗!!
歴史の授業で習う「白村江の戦」(663年)でございます。私の頃は「はくすきのえ」って言っていたけど、今は「はくそんこう」って言うのかな。
この大敗で天智天皇はビビったのだ。
唐が倭(日本)に攻めてくるかもしれない!!
そこで天智天皇は、主に西日本を中心に防衛施設を造り始るの。これが現代に続く城の始まり。
白村江の戦いのあと、6つの城が造られました。
百済は滅亡してしまったので、大勢の百済人が日本に渡り帰化。彼らの助言をもとに城が造られたと思われます。
長門城(現在の山口県あたり)
大野城(現在の福岡県あたり)
基肄城(きいじょう・現在の福岡県〜佐賀県あたり)
高安城(現在の奈良県〜大阪府あたり)
屋嶋城(現在の香川県あたり)
金田城(現在の長崎県対馬あたり)
ちなみに「城」という文字が使われるようになったのは、日本書紀によると 664 年(天智3)の記述から。それ以前には「垣」や「塁塞」という言葉が使われていたようですわ。このことからも「城」は唐水軍や新羅水軍に備えるためのものだったことが推測されるのでした。
(※ 歴史マニアさんは、スサノオが日本で最初の和歌を詠んだのを知ってるわけで、そこにも出てくる「垣」は平和なものではなかったんじゃないかな〜と、いろいろあの和歌を深読みしちゃうなあ。だって垣は垣でも八重垣よ。八重よ。どんだけ守り固めるの?)
これらの古代山城は外敵に備えて築かれた「朝鮮式山城」と言われるの。
東北の蝦夷に対する侵略 (笑) 拠点は「城柵」。
そして文献資料が無く、築城の契機や由来が分からないものは「神籠石山城(こうごいしやまじろ)」って言います。
今回訪れた鬼ノ城は、構造は「朝鮮式山城」なんだけど、温羅伝説としては名前が出てくるものの、日本書紀のような公の史料が一切残っていないし由来も分からないので「神籠石山城(こうごいしやまじろ)」に分類されます。
*
朝早くにホテルはチェックアウト。岡山駅構内のコインロッカーに大きな荷物は預けて、6時37分の列車に乗って目指すは総社。
来ました、総社市。古名は阿曾(あそ)。
たたら製鉄の火で昼夜明るかったので阿曾。
鬼ノ城へはタクシーで行くのだ。タクシー会社には事前に予約をしていたの。
鬼ノ城まで連れて行ってもらい、1.5 時間後に迎えに来て貰う計画。
どんどん山道を入っていきますよ〜〜。急カーブが続く山道をのぼっていきます。
せっかくなのでブレブレの様子も載せておこうw
7時30分に鬼ノ城の駐車場に到着しました。写真は去っていくタクシー。
ここから鬼ノ城があるところまで山登りw
今回は相方くんも居るし、スマホも元気なので心配なし!
朝早いので誰も居ません。
鬼ノ城へ向かう道の入口に「総社市鬼城山ビジターセンター」があって、概要などを勉強できる施設があるのですが、当然ながら開館前の時間ですから入れませんわw
朝早いので空気も気持ちが良い。
一応舗装されていたので歩きやすいです。
ちょっと道が分かりづらい箇所があったんだけど、それなりに進むことができました。
でも一人だったら違う方に進んで迷っていたかもしれないなあ。
看板が出てきたので、正しい道だったと分かって安堵^^
さあ、どんどん進もう〜!
しばらく歩いていると、遠くに復元された鬼ノ城の西門が見えました!
ほんとに山頂付近にあるんだ!!
分かりづらいと思うので、丸で囲ってみた^^
あそこまで行くよー!
「もちろんボクも居るよ」と、コロル2世w
ふと見ると、岡山が一望出来ます。
この鬼ノ城が建てられたと思われる 5〜8 世紀。
その頃は海だったんだって。此処から見下ろすと吉備の海が広がり、吉備の港に停泊する船が見えたんだねえ。
そんな古代に思いを馳せながら進んでいると看板発見〜!
鬼城山・西門を目指しますぞ。ちょっと息はあがっているけど、もう一踏ん張り!
時間にすると駐車場からここまで 10 分ちょっとだったと思うんだけどね(笑)
前日にタップリ歩いていたから足が疲れているっぽいww
鬼ノ城の全体図で見ると、西門は左上になります。
次回は、鬼ノ城の復元された西門の写真を紹介しますね〜!
*** 本日はポケGO とピクミンのイベントにつきブログ活動お休みします! ***
岡山旅行:翌日の予定 [ふらり旅・イベント]
9月16日。岡山旅行初日の一人旅が終わって、ホテルグランヴィア岡山にチェックイン。
相方くんとは岡山駅改札で待ち合わせをしてたけど、もうチェックインしちゃったのでその旨を伝えるとホテルに行くとのことでした。
今回のお部屋はエコノミーツインなので、ちょっと狭い。
7月に京都であった親戚の結婚式。花嫁さんが予約してくれたホテルグランヴィア京都の部屋はスーペリアツインだったのよね。あっちは広かったなあw
でも清潔感があるので GOOD!
どうせこのあとは飲みに行って、翌朝はめちゃめちゃ早く出発予定だから^^
これだけ揃っていれば十分です♪
コロル2世も、やっと寛げたかな?
吉備津神社での撮影を最後に、鞄の奥深くに居たもんねえ(笑)
仕事を終えた相方くんと合流。お疲れ様〜!
荷物を片付けていたら相方くんのスマホに、翌日泊まる直島のベネッセハウスから電話がかかってきました。
どうやら台風14号の影響で、宿泊した翌日の船が欠航になりそうとのこと。
キャンセルしますか? と言ってきました。少し考えてまた連絡しますと一度電話を切り、話し合い開始。
ホテルから電話があるってことは、やっぱり直島に渡るのは止めた方がいいのかも……ということで、キャンセルしました。(キャンセル料は掛からなかった)
せっかく奥様の誕生日にご宿泊いただく予定だったのに申し訳ありませんと言われたよ。いやいや、こればっかりは仕方ないです!(>_<
船が欠航して、崇徳院みたいに 3 年も直島に逗留することになったら困るものw(それは無いww)
2 泊 3 日の旅が、この時点で 1 泊 2 日になりました。
翌日、鬼ノ城 → 造山古墳 → 直島の予定だったけど、造山古墳の後をどうしますかねえ。
「あ! 今日運転手さんに教えて貰った最上稲荷に行く?」と相方くんに言うと、
「えー。もう稲荷は 7 月の伏見稲荷でお腹いっぱいだよ。やだ」と却下されました ^^;
「じゃあ、造山古墳のあとは ×× の行きたいところで良いよ。何処に行きたい?」
「うーん、そうだなあ。ありていに言えば倉敷の美観地区は行ってみたいかなー。あとは姫路城」と、相方くん。
「え? 姫路城って此処から近いの?」
「近いよ。新幹線使えば」
「そしたら姫路城がいい! お菊さんの井戸が見たい!」
というわけで、姫路城に決定!
場所が決まれば、あとは相方くんがルート、移動時間などを調べてくれます(笑)
今日私が列車に乗った JR庭瀬駅のことを話すと、1時間に4〜5本列車が来る路線という情報は相方くんにとって非常に有益だったようです。
「スマホの乗り換え案内アプリは便利だけど、路線がピンポイントでしか教えてくれないからね。昔ながらの時刻表だとズラーっと時刻が並んでいるから、どの路線がいいか面で比較的できて、一目瞭然なんだよなあ。時刻表アプリがあればいいのに」って言ってましたw
東京からの新幹線内でも、車内のテロップには台風14号のことが流れていて、運休する可能性ありと書かれてました。姫路城を見た後は、なるべく早く東京に戻った方がいいねということで、夕方の新幹線では東京に戻ることに決定。
諸々決まったので、夕御飯を食べに行こう!
お昼ご飯を食べ損ねたので、私は腹ぺこだよ。
今回予約しておいたお店は日本酒重視で決めました!
美味しい日本酒があるお店には、きっと美味しい肴があるに違いない^^
サワラと下津井タコがあるといいよね〜と言いながら、目的のお店に向かいます。
つづく。
【予告】こんなのを食べたよ〜♪♪
相方くんとは岡山駅改札で待ち合わせをしてたけど、もうチェックインしちゃったのでその旨を伝えるとホテルに行くとのことでした。
今回のお部屋はエコノミーツインなので、ちょっと狭い。
7月に京都であった親戚の結婚式。花嫁さんが予約してくれたホテルグランヴィア京都の部屋はスーペリアツインだったのよね。あっちは広かったなあw
でも清潔感があるので GOOD!
どうせこのあとは飲みに行って、翌朝はめちゃめちゃ早く出発予定だから^^
これだけ揃っていれば十分です♪
コロル2世も、やっと寛げたかな?
吉備津神社での撮影を最後に、鞄の奥深くに居たもんねえ(笑)
仕事を終えた相方くんと合流。お疲れ様〜!
荷物を片付けていたら相方くんのスマホに、翌日泊まる直島のベネッセハウスから電話がかかってきました。
どうやら台風14号の影響で、宿泊した翌日の船が欠航になりそうとのこと。
キャンセルしますか? と言ってきました。少し考えてまた連絡しますと一度電話を切り、話し合い開始。
ホテルから電話があるってことは、やっぱり直島に渡るのは止めた方がいいのかも……ということで、キャンセルしました。(キャンセル料は掛からなかった)
せっかく奥様の誕生日にご宿泊いただく予定だったのに申し訳ありませんと言われたよ。いやいや、こればっかりは仕方ないです!(>_<
船が欠航して、崇徳院みたいに 3 年も直島に逗留することになったら困るものw(それは無いww)
2 泊 3 日の旅が、この時点で 1 泊 2 日になりました。
翌日、鬼ノ城 → 造山古墳 → 直島の予定だったけど、造山古墳の後をどうしますかねえ。
「あ! 今日運転手さんに教えて貰った最上稲荷に行く?」と相方くんに言うと、
「えー。もう稲荷は 7 月の伏見稲荷でお腹いっぱいだよ。やだ」と却下されました ^^;
「じゃあ、造山古墳のあとは ×× の行きたいところで良いよ。何処に行きたい?」
「うーん、そうだなあ。ありていに言えば倉敷の美観地区は行ってみたいかなー。あとは姫路城」と、相方くん。
「え? 姫路城って此処から近いの?」
「近いよ。新幹線使えば」
「そしたら姫路城がいい! お菊さんの井戸が見たい!」
というわけで、姫路城に決定!
場所が決まれば、あとは相方くんがルート、移動時間などを調べてくれます(笑)
今日私が列車に乗った JR庭瀬駅のことを話すと、1時間に4〜5本列車が来る路線という情報は相方くんにとって非常に有益だったようです。
「スマホの乗り換え案内アプリは便利だけど、路線がピンポイントでしか教えてくれないからね。昔ながらの時刻表だとズラーっと時刻が並んでいるから、どの路線がいいか面で比較的できて、一目瞭然なんだよなあ。時刻表アプリがあればいいのに」って言ってましたw
東京からの新幹線内でも、車内のテロップには台風14号のことが流れていて、運休する可能性ありと書かれてました。姫路城を見た後は、なるべく早く東京に戻った方がいいねということで、夕方の新幹線では東京に戻ることに決定。
諸々決まったので、夕御飯を食べに行こう!
お昼ご飯を食べ損ねたので、私は腹ぺこだよ。
今回予約しておいたお店は日本酒重視で決めました!
美味しい日本酒があるお店には、きっと美味しい肴があるに違いない^^
サワラと下津井タコがあるといいよね〜と言いながら、目的のお店に向かいます。
つづく。
【予告】こんなのを食べたよ〜♪♪
岡山後楽園に蚊はいなかった [ふらり旅・イベント]
ディープな歴史巡りが済んで、後楽園に向かっております。
スマホも今までの不具合が嘘のように順調に充電出来てるので一安心。
路面電車を降りて歩いてると、こんもりした島(?)が見えてきた〜!
もっとちんまりしてるんだと思ったら、想像以上に大きい!
そりゃそうか〜。日本三名園だもんねえ。どうやらあの橋を渡っていくっぽい。
月見橋というらしい。昔はもっと風流な橋が架かっていたのかな?
ふと振り返ると岡山城!!
現在は大規模修繕中のようです。今年の 11 月にリニューアルオープンって看板が出てました。
漆黒の城が美しいね。16 世紀のお城。でも私は明日推定 7 世紀のお城(鬼ノ城)を見るもんねw
橋を渡りきると「岡山後楽園」の文字が。此処に入れば日本三名園の制覇!
南門と正門があるらしく、此処からは南門が近いようなのでそっちに行くことにします。入園料を払って、いざ!!
ひろーーーーーーーい!!
えーっと、私は裏歴史ハンターのパレオマニアなので、後楽園については多くは語りません^^
ネットを見ればいろいろ情報が出てくるもんね♪
【パレオマニア = 古代妄想狂:作家 池澤夏樹の造語】
江戸時代の岡山藩主、池田綱政が家臣に命じて作った庭園なんだそうな。かつては藩主の静養の場、接待の場として使われていたんだって。
景色を楽しみながらのんびり歩いたのですが、この日はとにかく暑かった。
あちこちにベンチがあったので、そこから景色を眺めながらぼんやりしました。汗もどんどん出てくるけど、この園内はあちこちに自販機もあったので水分補給は出来たよ^^
山の中と違って蚊も居ない!(笑)
そしてスマホも充電出来てるから、やっとポケGO やピクミンブルームを立ち上げることが出来ましたw
快適にポケGOのギフト集めも頑張ったww
園内には藩主が後楽園を訪れたときに居間として使った延養亭や能舞台などもあって、なかなか素敵な建物でした。
正直、朝から歩きすぎて疲れも出ていたので全部を見て回るのは無理ぃ。
パンフレットを参考に、興味のあるところだけを見よう!
まずは茶畑(笑)
ここの茶葉は苦みの強い古種なんだそうな。藩主が普段飲むお茶だったらしいわ。どんな味なのかなぁ。飲んでみたいなー。園内の何処かで飲めたのかしら??
次に向かったのは井田(いでん)です。
北海道出身だと、やっぱりこんなふうに稲穂が垂れてる一面の景色を見ることは皆無だったから〜。すごいなー。この井田、かつて園内に広がっていた田畑の名残なんだって。中国周時代の田租法にならい、幕末まで形作られていたとのこと。
立て札を見たら餅米栽培だって。ありゃ、餅米アレルギーの私は食べられない(笑)
後楽園の雰囲気を味わったことだし、そろそろ岡山駅に戻りますかネ。
南門から入ったので正門から出てみました。
出口の所にスタンプコーナーがあったので、持ち歩いていた測量野帳に押してみた^^
ちなみに後楽園に関するメモ書きは、写真右上の切り抜きだけでした ^ω^;
正門を出るとバス乗り場があったよ。時刻表を見てみると 12 分後に岡山行きのバスが来るみたい。バスを待って岡山駅へ。
相方くんとの待ち合わせの 16 時にはまだ早かったけど、この日宿泊するホテルは駅直結のホテルグランヴィア岡山。チェックイン出来る時間だったのでフロントに行くことにしました。予約メールは相方くんから転送してもらってるから大丈夫でしょう♪
チェックインを済ませ、部屋で直接コンセントからガッツリ iPhone の充電開始ですよ(笑)
つづく
【岡山 後楽園】
https://okayama-korakuen.jp/index.html
スマホも今までの不具合が嘘のように順調に充電出来てるので一安心。
路面電車を降りて歩いてると、こんもりした島(?)が見えてきた〜!
もっとちんまりしてるんだと思ったら、想像以上に大きい!
そりゃそうか〜。日本三名園だもんねえ。どうやらあの橋を渡っていくっぽい。
月見橋というらしい。昔はもっと風流な橋が架かっていたのかな?
ふと振り返ると岡山城!!
現在は大規模修繕中のようです。今年の 11 月にリニューアルオープンって看板が出てました。
漆黒の城が美しいね。16 世紀のお城。でも私は明日推定 7 世紀のお城(鬼ノ城)を見るもんねw
橋を渡りきると「岡山後楽園」の文字が。此処に入れば日本三名園の制覇!
南門と正門があるらしく、此処からは南門が近いようなのでそっちに行くことにします。入園料を払って、いざ!!
ひろーーーーーーーい!!
えーっと、私は裏歴史ハンターのパレオマニアなので、後楽園については多くは語りません^^
ネットを見ればいろいろ情報が出てくるもんね♪
【パレオマニア = 古代妄想狂:作家 池澤夏樹の造語】
江戸時代の岡山藩主、池田綱政が家臣に命じて作った庭園なんだそうな。かつては藩主の静養の場、接待の場として使われていたんだって。
景色を楽しみながらのんびり歩いたのですが、この日はとにかく暑かった。
あちこちにベンチがあったので、そこから景色を眺めながらぼんやりしました。汗もどんどん出てくるけど、この園内はあちこちに自販機もあったので水分補給は出来たよ^^
山の中と違って蚊も居ない!(笑)
そしてスマホも充電出来てるから、やっとポケGO やピクミンブルームを立ち上げることが出来ましたw
快適にポケGOのギフト集めも頑張ったww
園内には藩主が後楽園を訪れたときに居間として使った延養亭や能舞台などもあって、なかなか素敵な建物でした。
正直、朝から歩きすぎて疲れも出ていたので全部を見て回るのは無理ぃ。
パンフレットを参考に、興味のあるところだけを見よう!
まずは茶畑(笑)
ここの茶葉は苦みの強い古種なんだそうな。藩主が普段飲むお茶だったらしいわ。どんな味なのかなぁ。飲んでみたいなー。園内の何処かで飲めたのかしら??
次に向かったのは井田(いでん)です。
北海道出身だと、やっぱりこんなふうに稲穂が垂れてる一面の景色を見ることは皆無だったから〜。すごいなー。この井田、かつて園内に広がっていた田畑の名残なんだって。中国周時代の田租法にならい、幕末まで形作られていたとのこと。
立て札を見たら餅米栽培だって。ありゃ、餅米アレルギーの私は食べられない(笑)
後楽園の雰囲気を味わったことだし、そろそろ岡山駅に戻りますかネ。
南門から入ったので正門から出てみました。
出口の所にスタンプコーナーがあったので、持ち歩いていた測量野帳に押してみた^^
ちなみに後楽園に関するメモ書きは、写真右上の切り抜きだけでした ^ω^;
正門を出るとバス乗り場があったよ。時刻表を見てみると 12 分後に岡山行きのバスが来るみたい。バスを待って岡山駅へ。
相方くんとの待ち合わせの 16 時にはまだ早かったけど、この日宿泊するホテルは駅直結のホテルグランヴィア岡山。チェックイン出来る時間だったのでフロントに行くことにしました。予約メールは相方くんから転送してもらってるから大丈夫でしょう♪
チェックインを済ませ、部屋で直接コンセントからガッツリ iPhone の充電開始ですよ(笑)
つづく
【岡山 後楽園】
https://okayama-korakuen.jp/index.html
iPhone の顛末と、いざ後楽園へ [ふらり旅・イベント]
「岡山旅行の続きだニャ」
楯築遺跡を見終わってタクシーに戻りました。
「どうだった?」と運転手さんが聞いてきたので
「良かったですよー。来られて本当に満足です」と答えて、iPad で撮った写真を見せました(笑)
「今はすごいなあ。こんなふうにすぐにスライドショーが見られる」と運転手さんも笑ってましたよ。(運転手さんはお客さんを此処には連れて来るけど、いつもタクシーで待ってるので、遺跡を見たことは無いんだって)
さすがに楯築遺跡まで来てしまったので、ここから岡山駅まで行くとなるとタクシー料金が上がってしまうとのこと。なので JR 庭瀬駅まで送りますよと、どこまでも良心的な運転手さんですw
「岡山駅でお友達と待ち合わせかな? 何時に待ち合わせなのかな?」
「ダンナと夕方待ち合わせなんです。出張に便乗してきたんですよ」
「そりゃいいね。明日もこの辺を観光かな?」
「明日は鬼ノ城に行って、そのあと香川の直島に行く予定なんです」(このときはまだそう思っていた)
このあと、タクシーの運転手さんのご長男が「うらじゃ祭り」に嵌まって踊りまくっている話や、この界隈のバラ園の話などを聞いてました。
そのとき相方くんから LINE が来て「ヘンなところに居ない?」と書いてあったので、タクシーで移動してる旨伝えておきました。GPS で居場所をチェックしてくれたんだね。
【うらじゃ祭り】
https://uraja.jp/
https://uraja.jp/shinkokai/about/ura.html
「そうだ。歴史好きなら稲荷にも興味あるかな? 此処には最上稲荷があって、日本三大稲荷の1つだよ」と運転手さん。
ほほー。関東だと三大稲荷は、伏見稲荷大社(京都市)、豊川稲荷(愛知県豊川市)、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)なんだけど、こっちだと岡山の最上稲荷になるんだね。
伏見稲荷大社はまだ訪れたことがないらしく、行ってみたいなーと言っていたので 7 月に訪れた話をしました。(さすがに「稲成り」が「鋳成り」の話はディープすぎたので止めておいたw)
いまタクシーが走っているところから、最上稲荷も離れていないようだったのでチョット心が揺れたんだけど、スマホを見るとほんとに電池がやばい。おまけにブラウザを立ち上げてみると「インターネットに接続できません」と表示されるじゃないですか (笑)
こりゃ、スマホは完全に終わったな^^;
最上稲荷に立ち寄るのは、またの機会にしておけというお告げだね。
タクシーは JR 庭瀬駅に到着。
スマホが使えないので電子決済ではなく現金で支払い(笑)
「列車は何本もくるから大丈夫だよ。岡山方面の列車は全部岡山駅に停まるから」と、どこまでも優しい運転手さんでした。ありがとう!
切符を買ってホームに行きます。
通過列車のあと 8 分待てば岡山行きの列車が来るみたい。素晴らしい。
ベンチに腰掛けてスマホを見るとアンテナが立っていてネットに繋げるようになってる。試しにブラウザを立ち上げると表示されました。
鞄からモバイルバッテリーを取り出します。ダメ元でスマホにケーブルを挿してみると、なんと充電されるじゃないですか!
吉備津神社からの不具合が嘘のように、普通に充電されてるよ!
狐につままれたような気分だよ^^;
「あんなに焦ったのはなんだったのにゃー」
これはきっと、吉備の神様が行き先をいろいろ決めたに違いない。そう解釈しましたわ(笑)
ほんとは iPhone 本体内の液体が乾いた??
でもホッとしたよー。
これでまた iPhone が使える(感涙)
相方くんにスマホ復活の旨を伝え、ホッとしたらお腹が空きました。そういえば昼ご飯を食べてなかったよ。
じつは朝、岡山駅に着いたときに軽くつまめるものは買っていたのです。
道中コンビニはないだろうから、小腹が空いたときに食べようと思っていたの。
食べ損ねていた海老玉ねぎ棒天を、岡山駅に到着してから休憩スペースで食べました(笑)
JR 岡山駅から出ると、桃太郎が居る〜!
ディープな桃太郎の世界を味わってきた私には、この桃太郎像がとっても幼く見えますw
基本、旅はディープでマイナー路線の私だけど岡山ではメジャーなところにも行くつもりだったのだ。それは後楽園!
此処を制覇すれば、日本三名園の制覇になるから^^
岡山駅から歩いて後楽園には行けるのかなー。
信号待ちをしているとビックカメラの入口に「薬」の文字が。あ、直島に行くとき船に乗るから酔い止めを買っておかなくちゃ! 台風も近づいてるから船も揺れそうだし……そう思って酔い止めを購入。
レジの人に「後楽園まで歩けますかね?」と尋ねると、
「行けなくはないけど、あっちの出口から出たら路面電車乗り場があるので、それに乗った方がいいですよ」と教えてくれました。
言われた方に行くと、確かにあった。
でもどれに乗ればいいんだ?
とりあえず停車してる路面電車の運転手さんに「後楽園に行きますか?」と聞いたら行くというので乗り込みますw
目的の停留所に着いて降りたは良いけど、右に行けばいいのか左に行けばいいのか分からない。きょろきょろしてると、運転手さんがわざわざ外に出てきてくれて「この階段をくぐってあっちの道に出たらまっすぐだよ」と親切に教えてくれました。
岡山の人たち、本当にみんないい人です!
ありがとう!!
言われたとおりに進む(笑)
おお! あとはまっすぐ行けば良いんだね!
方向音痴の私でも大丈夫だ ^^
というわけで、次に続きます(笑)
翌日の鬼ノ城ネタまでは、裏歴史の話はしませんので安心して下さいww
楯築遺跡を見終わってタクシーに戻りました。
「どうだった?」と運転手さんが聞いてきたので
「良かったですよー。来られて本当に満足です」と答えて、iPad で撮った写真を見せました(笑)
「今はすごいなあ。こんなふうにすぐにスライドショーが見られる」と運転手さんも笑ってましたよ。(運転手さんはお客さんを此処には連れて来るけど、いつもタクシーで待ってるので、遺跡を見たことは無いんだって)
さすがに楯築遺跡まで来てしまったので、ここから岡山駅まで行くとなるとタクシー料金が上がってしまうとのこと。なので JR 庭瀬駅まで送りますよと、どこまでも良心的な運転手さんですw
「岡山駅でお友達と待ち合わせかな? 何時に待ち合わせなのかな?」
「ダンナと夕方待ち合わせなんです。出張に便乗してきたんですよ」
「そりゃいいね。明日もこの辺を観光かな?」
「明日は鬼ノ城に行って、そのあと香川の直島に行く予定なんです」(このときはまだそう思っていた)
このあと、タクシーの運転手さんのご長男が「うらじゃ祭り」に嵌まって踊りまくっている話や、この界隈のバラ園の話などを聞いてました。
そのとき相方くんから LINE が来て「ヘンなところに居ない?」と書いてあったので、タクシーで移動してる旨伝えておきました。GPS で居場所をチェックしてくれたんだね。
【うらじゃ祭り】
https://uraja.jp/
https://uraja.jp/shinkokai/about/ura.html
「そうだ。歴史好きなら稲荷にも興味あるかな? 此処には最上稲荷があって、日本三大稲荷の1つだよ」と運転手さん。
ほほー。関東だと三大稲荷は、伏見稲荷大社(京都市)、豊川稲荷(愛知県豊川市)、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)なんだけど、こっちだと岡山の最上稲荷になるんだね。
伏見稲荷大社はまだ訪れたことがないらしく、行ってみたいなーと言っていたので 7 月に訪れた話をしました。(さすがに「稲成り」が「鋳成り」の話はディープすぎたので止めておいたw)
いまタクシーが走っているところから、最上稲荷も離れていないようだったのでチョット心が揺れたんだけど、スマホを見るとほんとに電池がやばい。おまけにブラウザを立ち上げてみると「インターネットに接続できません」と表示されるじゃないですか (笑)
こりゃ、スマホは完全に終わったな^^;
最上稲荷に立ち寄るのは、またの機会にしておけというお告げだね。
タクシーは JR 庭瀬駅に到着。
スマホが使えないので電子決済ではなく現金で支払い(笑)
「列車は何本もくるから大丈夫だよ。岡山方面の列車は全部岡山駅に停まるから」と、どこまでも優しい運転手さんでした。ありがとう!
切符を買ってホームに行きます。
通過列車のあと 8 分待てば岡山行きの列車が来るみたい。素晴らしい。
ベンチに腰掛けてスマホを見るとアンテナが立っていてネットに繋げるようになってる。試しにブラウザを立ち上げると表示されました。
鞄からモバイルバッテリーを取り出します。ダメ元でスマホにケーブルを挿してみると、なんと充電されるじゃないですか!
吉備津神社からの不具合が嘘のように、普通に充電されてるよ!
狐につままれたような気分だよ^^;
「あんなに焦ったのはなんだったのにゃー」
これはきっと、吉備の神様が行き先をいろいろ決めたに違いない。そう解釈しましたわ(笑)
ほんとは iPhone 本体内の液体が乾いた??
でもホッとしたよー。
これでまた iPhone が使える(感涙)
相方くんにスマホ復活の旨を伝え、ホッとしたらお腹が空きました。そういえば昼ご飯を食べてなかったよ。
じつは朝、岡山駅に着いたときに軽くつまめるものは買っていたのです。
道中コンビニはないだろうから、小腹が空いたときに食べようと思っていたの。
食べ損ねていた海老玉ねぎ棒天を、岡山駅に到着してから休憩スペースで食べました(笑)
JR 岡山駅から出ると、桃太郎が居る〜!
ディープな桃太郎の世界を味わってきた私には、この桃太郎像がとっても幼く見えますw
基本、旅はディープでマイナー路線の私だけど岡山ではメジャーなところにも行くつもりだったのだ。それは後楽園!
此処を制覇すれば、日本三名園の制覇になるから^^
岡山駅から歩いて後楽園には行けるのかなー。
信号待ちをしているとビックカメラの入口に「薬」の文字が。あ、直島に行くとき船に乗るから酔い止めを買っておかなくちゃ! 台風も近づいてるから船も揺れそうだし……そう思って酔い止めを購入。
レジの人に「後楽園まで歩けますかね?」と尋ねると、
「行けなくはないけど、あっちの出口から出たら路面電車乗り場があるので、それに乗った方がいいですよ」と教えてくれました。
言われた方に行くと、確かにあった。
でもどれに乗ればいいんだ?
とりあえず停車してる路面電車の運転手さんに「後楽園に行きますか?」と聞いたら行くというので乗り込みますw
目的の停留所に着いて降りたは良いけど、右に行けばいいのか左に行けばいいのか分からない。きょろきょろしてると、運転手さんがわざわざ外に出てきてくれて「この階段をくぐってあっちの道に出たらまっすぐだよ」と親切に教えてくれました。
岡山の人たち、本当にみんないい人です!
ありがとう!!
言われたとおりに進む(笑)
おお! あとはまっすぐ行けば良いんだね!
方向音痴の私でも大丈夫だ ^^
というわけで、次に続きます(笑)
翌日の鬼ノ城ネタまでは、裏歴史の話はしませんので安心して下さいww
タグ:雨だと散歩が出来ないなあ
楯築遺跡の円丘部 [ふらり旅・イベント]
タクシーの運転手さんとの会話から、ひょんなことでホントは訪れたかったけど諦めていた楯築(たてつき)遺跡に来ることが出来ました。
吉備の桃太郎伝説では、この楯築遺跡にある巨石を楯にして、大和の吉備津彦(イサセリ彦ねw)は矢を放ったと伝えられてます。ホントかどうかは知らんけどww
楯築遺跡の円丘部は何処だ〜? とウロウロしていると、なんだか金網に覆われた巨大な建物(あとで調べたら給水塔だった)の奥に何やら盛り上がった空間がある。
おそるおそる行ってみると……あったー!
楯築という名前の由来になっていると思われる巨石たちです。
円丘部は径約 50m、高さ 5m。墳丘頂部に 5 個の巨石が立っていて、墳丘斜面には円礫帯がめぐっているとのこと。
【 ※ 円礫 = 超簡単に言うと直径 2mm 以上の粒】
何らかの祭祀を行う場として作られたと考えられてます。そしてこの巨石自体は邪馬台国と同時代に建てられたものでは? とのこと。
この祠があるあたりの地下約 1.5m から埋葬の跡が見つかっているんだそうな。
木郭木棺墓が見つかっていて、木棺の底には総重量 32kg を越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められていたんだって。
その上には鉄剣が1口と勾玉や管玉,ガラス製小玉などの玉類が副葬されていたとのこと。
水銀朱かぁ〜。防腐の目的はあるだろうけど、それだけじゃない呪術的なものも感じるね。(墳丘墓内ではもう1基、埋葬施設が確認されています)
円丘部の中央付近には、おびただしい数の円礫が堆積していて、この中には特殊器台などの土器類や旋帯文石(せんたいもんせき)と同じ文様をもつ小形の石などがあったそうな。
埋葬者の遺骨はなくて、歯の欠片が 2 個あっただけ。
埋葬者は何処に行っちゃったのかなあ。
円丘部に置かれた巨石も、おそらく1つ1つに意味があったんだろうね。
私には想像出来ないけど……
真っ二つに割られた石もある。
こんなふうに石を割ることにも意味があるんだろうと、考察している記事も見つけましたわ。
この墳丘墓に弥生時代の権力者が眠っていたのかぁ〜。
突出した部分が宅地開発で壊されてしまったのは残念だな。
検索していて、団地造成事業の裏話(?)的なことが書かれていたサイトも見つけました。リンク先を載せるのは控えるけど、当時は考古学上、重要な遺跡であるという認識が低かったみたいです。残念過ぎる。実際に発掘調査に携わっていた人たちは悔しい思いをしたんじゃないのかなあ。
円丘部に立って、せめて弥生時代に思いを馳せよう。
ぼんやり巨石を眺めていたんだけどね、、、
でもね、なんだか……ぞくぞくする石もあるんだけど、場所によってはお金持ちの家の庭園風で……
なんだろう。古代の風景をあまり感じられないところもある。
スピリチュアルなことよりも歴史に興味があるから、あまりこういうことは書きたくないんだけど(パワースポットって言い方も好きじゃない)、心の深いところにちょっと違和感があってね。。。
あまりにも天気が良すぎて巨石に日の光がバンバン当たってるから、余計に庭園の石みたいに感じちゃうのかしら。遺跡を見るなら木々の葉が落ちてる季節に見た方が良いと言ってる人も居ることに少し納得。この生い茂った木々が妙に庭園チックな空気を醸し出してる?(笑)
気になったので家に帰ってからちょいと調べてみたら、発掘調査や公園整備の都合上、巨石の殆どは埋め替えられてるみたい。石によっては、傾いていたものを垂直に立て直したりしているそうな。
なるほど、だから庭園の巨石みたいに見えるのかも^^;
弥生時代の祭祀がおこなわれていたときとは姿が変わっているんだね。
妙に納得しました(笑)
このへんのことを詳しく書いた、発掘調査に携わった人たちが刊行した本が国立国会図書館にあることはリサーチ済みなので、そのうち閲覧しに行ってこようと思ってます^^
それでもこの墳丘墓からの出土品は、歴史上非常に重要。
棺にあったはずの遺骨は何処にいったのか。歯の欠片が 2 個だけ残っていたのは何故なのか。なんだかいろいろ妄想しちゃうw
長くなるから書かないけどww
もっともっと調べさせてくださいねー! と、祠に声をかけて楯築遺跡をあとにしました。
動画も撮ってきたので載せておきます。(風などの音あり16秒)
ほんっと来ることが出来て良かった。
現地の雰囲気、肌で感じられて良かったですよぉー^^
吉備の桃太郎伝説では、この楯築遺跡にある巨石を楯にして、大和の吉備津彦(イサセリ彦ねw)は矢を放ったと伝えられてます。ホントかどうかは知らんけどww
楯築遺跡の円丘部は何処だ〜? とウロウロしていると、なんだか金網に覆われた巨大な建物(あとで調べたら給水塔だった)の奥に何やら盛り上がった空間がある。
おそるおそる行ってみると……あったー!
楯築という名前の由来になっていると思われる巨石たちです。
円丘部は径約 50m、高さ 5m。墳丘頂部に 5 個の巨石が立っていて、墳丘斜面には円礫帯がめぐっているとのこと。
【 ※ 円礫 = 超簡単に言うと直径 2mm 以上の粒】
何らかの祭祀を行う場として作られたと考えられてます。そしてこの巨石自体は邪馬台国と同時代に建てられたものでは? とのこと。
この祠があるあたりの地下約 1.5m から埋葬の跡が見つかっているんだそうな。
木郭木棺墓が見つかっていて、木棺の底には総重量 32kg を越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められていたんだって。
その上には鉄剣が1口と勾玉や管玉,ガラス製小玉などの玉類が副葬されていたとのこと。
水銀朱かぁ〜。防腐の目的はあるだろうけど、それだけじゃない呪術的なものも感じるね。(墳丘墓内ではもう1基、埋葬施設が確認されています)
円丘部の中央付近には、おびただしい数の円礫が堆積していて、この中には特殊器台などの土器類や旋帯文石(せんたいもんせき)と同じ文様をもつ小形の石などがあったそうな。
埋葬者の遺骨はなくて、歯の欠片が 2 個あっただけ。
埋葬者は何処に行っちゃったのかなあ。
円丘部に置かれた巨石も、おそらく1つ1つに意味があったんだろうね。
私には想像出来ないけど……
真っ二つに割られた石もある。
こんなふうに石を割ることにも意味があるんだろうと、考察している記事も見つけましたわ。
この墳丘墓に弥生時代の権力者が眠っていたのかぁ〜。
突出した部分が宅地開発で壊されてしまったのは残念だな。
検索していて、団地造成事業の裏話(?)的なことが書かれていたサイトも見つけました。リンク先を載せるのは控えるけど、当時は考古学上、重要な遺跡であるという認識が低かったみたいです。残念過ぎる。実際に発掘調査に携わっていた人たちは悔しい思いをしたんじゃないのかなあ。
円丘部に立って、せめて弥生時代に思いを馳せよう。
ぼんやり巨石を眺めていたんだけどね、、、
でもね、なんだか……ぞくぞくする石もあるんだけど、場所によってはお金持ちの家の庭園風で……
なんだろう。古代の風景をあまり感じられないところもある。
スピリチュアルなことよりも歴史に興味があるから、あまりこういうことは書きたくないんだけど(パワースポットって言い方も好きじゃない)、心の深いところにちょっと違和感があってね。。。
あまりにも天気が良すぎて巨石に日の光がバンバン当たってるから、余計に庭園の石みたいに感じちゃうのかしら。遺跡を見るなら木々の葉が落ちてる季節に見た方が良いと言ってる人も居ることに少し納得。この生い茂った木々が妙に庭園チックな空気を醸し出してる?(笑)
気になったので家に帰ってからちょいと調べてみたら、発掘調査や公園整備の都合上、巨石の殆どは埋め替えられてるみたい。石によっては、傾いていたものを垂直に立て直したりしているそうな。
なるほど、だから庭園の巨石みたいに見えるのかも^^;
弥生時代の祭祀がおこなわれていたときとは姿が変わっているんだね。
妙に納得しました(笑)
このへんのことを詳しく書いた、発掘調査に携わった人たちが刊行した本が国立国会図書館にあることはリサーチ済みなので、そのうち閲覧しに行ってこようと思ってます^^
それでもこの墳丘墓からの出土品は、歴史上非常に重要。
棺にあったはずの遺骨は何処にいったのか。歯の欠片が 2 個だけ残っていたのは何故なのか。なんだかいろいろ妄想しちゃうw
長くなるから書かないけどww
もっともっと調べさせてくださいねー! と、祠に声をかけて楯築遺跡をあとにしました。
動画も撮ってきたので載せておきます。(風などの音あり16秒)
ほんっと来ることが出来て良かった。
現地の雰囲気、肌で感じられて良かったですよぉー^^
古代の王に導かれたのかもしれない?(笑) [ふらり旅・イベント]
写真は記事とは関係ないけど、家の近所の彼岸花をパチリ。
秋ですのぅ。
さて。岡山旅の続きです。
タクシーに乗って岡山駅に向かうことにした私。運転手さんとの会話は続きます。
「こんなふうに史跡巡りが趣味なの?」
「はい。旅はもっぱら歴史探訪です」
「ボクは歴史に疎いんだけど、このあいだ桃太郎の話をテレビで観てね。面白かったな」
「あ、NHK ですよね。旅行前にタイムリーって思って私も観ました。でも温羅の話が一切出てこなかったので、それは納得がいかなかったな」
「ははは。詳しい人からしたら、物足りない番組だったかな。あの番組に出てきた楯築(たてつき)遺跡は、お客さんを何度か乗せたことがあったから、その名前が出てきて勉強になったよ」
「楯築遺跡! ホントは岡山に来たら絶対行きたいって思ってた場所なんですよ。でも倉敷にあるから今回は諦めたんです」
「ん? 此処からなら 10 分ちょっとで着くよ」
「あれ? だって楯築遺跡って倉敷市ですよね?」
「ああ、この辺は岡山市と総社市と倉敷市の境界でね。楯築遺跡は倉敷市の外れだから此処から近いよ」
「ホントですか? そこに行きたいです!」
「寄ってみるかい?」
「是非お願いします!」
この時点で中山茶臼山古墳に行けなかったことなど吹っ飛びました(笑)
スマホの電池のことも忘れましたw
テンション上がりまくりですっ
なぜなら……
「そうか、楯築遺跡ってそんなにすごいところなのかー」
「すごいんですよ! 2世紀後半くらいの弥生時代なので、古墳じゃなくて墳丘墓なんですけど、これが弥生時代の墳丘墓の中では日本で一番大きいんですよ! そしてこの墳丘墓が前方後円墳のモトになってるって話なんですよ。前方後円墳が吉備で生まれた証拠っても言われてるんです」
興奮しちゃったので、楯築遺跡について熱く話してしまったよ(笑)
そうなのだ。この墳丘墓は弥生時代に既に大きな権力を持った王がこの吉備地方に居たことの証。ここまで大きいものは北九州にも出雲にも大和にも無い。
そして此処で出土した特殊器台と特殊壺。のちに箸墓古墳でも見つかる特殊器台と特殊壺。ということは、この墳丘墓に眠っていた人物こそ、おそらく吉備王国の最初の王。この楯築遺跡は古代吉備国の原点なのよ!
うわー、うわー、スマホの異常はきっと「此処に行け!」っていうことだったのかも〜!
すごーいすごーい! と興奮してた私でした。
ほどなくしてタクシーは入口に到着。
「ボクは此処で待っているから、のんびり楽しんでおいで」と言って送り出してくれました。(念のために運転手さんは自分の携帯番号をメモに書いて私にくれた)
まさか楯築遺跡に来られるとは思ってなかったので、地図などは全然頭に入ってません。本で読んだ情報が頭に入っているだけで、具体的に何もメモしてこなかったのよね。
看板を発見。もともとはこの赤い色のような形をしている墳丘墓。
全長約 80m で、同時代の墳丘墓の中では最大級。
自然の丘の頂を整えて造られていて、やや歪んだ円形の円丘部は約 50m なんだって。
突出部は、昭和40年代の住宅団地建設で破壊されちゃったそうな。
この階段の先が円丘部なのかな? と思って、上ってみる。
でも違った(笑)
この先は古墳の周りを歩く遊歩道っぽくなっていたけど、当然舗装されてなくて、草木に覆われていてまた蚊に襲われそうな雰囲気だったので撤退。
違う道に行ってみると、お、これは収蔵庫!
某漫画では、此処から龍神石が盗まれたことになってるわw
実際はこの収蔵庫には旋帯文石(せんたいもんせき)が納められています。
建物の横に覗き穴があるらしく、そこから旋帯文石を見ることが出来たようなんだけど、見損ねちゃいました。次回訪れたら絶対に見よう! (やっぱり事前調査不足は否めないねw)
おかやま観光ネットに載っていた写真をお借りしよう。こんな石なんだよ。
石の表面には全面に特殊な旋帯文が施されていて、正面には人間の顔のような彫り込みがあるんだそうな。こういうのは他に例がないみたい。遺跡の発掘調査で、同じ文様が入った小さな石が出てきて、2世紀末頃のものと分かったんだって。
この文様。古代吉備文化財センターで見た特殊器台にみられるものと類似しているとのこと。この文様が弥生時代の吉備の呪術では重要なものだったんだろうなあ。
今こうやってまじまじと文様を見て、倉敷市のホームページに載っている旋帯文石を見ると、波とうず潮にも見えてきちゃった(笑)
蛇(もしくは龍?)を表してるのかもしれないけど、うず潮に見えるw
関門海峡を渡り、特殊な潮流の瀬戸内海を自在に航行した一族。吉備に拠点を置いて製塩、製鉄を始めた一族……なーんて想像しちゃったww
まだまだ妄想の域だけど、その一族の長こそ元祖・吉備津彦命! なんてね^^
長くなったので次回に続きます。
***
不思議な旋帯文。家に帰ってきてからいろいろ調べてみたら、綿花を糸に紡いだ状態をモチーフにしていると考察してる人のサイトも見つけて非常に面白かったです。鬼城山あたりは綿花栽培もおこなわれていたみたい。
言われてみたら岡山って岡山デニムが有名だし、繊維の町でもあるもんね?
秋ですのぅ。
さて。岡山旅の続きです。
タクシーに乗って岡山駅に向かうことにした私。運転手さんとの会話は続きます。
「こんなふうに史跡巡りが趣味なの?」
「はい。旅はもっぱら歴史探訪です」
「ボクは歴史に疎いんだけど、このあいだ桃太郎の話をテレビで観てね。面白かったな」
「あ、NHK ですよね。旅行前にタイムリーって思って私も観ました。でも温羅の話が一切出てこなかったので、それは納得がいかなかったな」
「ははは。詳しい人からしたら、物足りない番組だったかな。あの番組に出てきた楯築(たてつき)遺跡は、お客さんを何度か乗せたことがあったから、その名前が出てきて勉強になったよ」
「楯築遺跡! ホントは岡山に来たら絶対行きたいって思ってた場所なんですよ。でも倉敷にあるから今回は諦めたんです」
「ん? 此処からなら 10 分ちょっとで着くよ」
「あれ? だって楯築遺跡って倉敷市ですよね?」
「ああ、この辺は岡山市と総社市と倉敷市の境界でね。楯築遺跡は倉敷市の外れだから此処から近いよ」
「ホントですか? そこに行きたいです!」
「寄ってみるかい?」
「是非お願いします!」
この時点で中山茶臼山古墳に行けなかったことなど吹っ飛びました(笑)
スマホの電池のことも忘れましたw
テンション上がりまくりですっ
なぜなら……
「そうか、楯築遺跡ってそんなにすごいところなのかー」
「すごいんですよ! 2世紀後半くらいの弥生時代なので、古墳じゃなくて墳丘墓なんですけど、これが弥生時代の墳丘墓の中では日本で一番大きいんですよ! そしてこの墳丘墓が前方後円墳のモトになってるって話なんですよ。前方後円墳が吉備で生まれた証拠っても言われてるんです」
興奮しちゃったので、楯築遺跡について熱く話してしまったよ(笑)
そうなのだ。この墳丘墓は弥生時代に既に大きな権力を持った王がこの吉備地方に居たことの証。ここまで大きいものは北九州にも出雲にも大和にも無い。
そして此処で出土した特殊器台と特殊壺。のちに箸墓古墳でも見つかる特殊器台と特殊壺。ということは、この墳丘墓に眠っていた人物こそ、おそらく吉備王国の最初の王。この楯築遺跡は古代吉備国の原点なのよ!
うわー、うわー、スマホの異常はきっと「此処に行け!」っていうことだったのかも〜!
すごーいすごーい! と興奮してた私でした。
ほどなくしてタクシーは入口に到着。
「ボクは此処で待っているから、のんびり楽しんでおいで」と言って送り出してくれました。(念のために運転手さんは自分の携帯番号をメモに書いて私にくれた)
まさか楯築遺跡に来られるとは思ってなかったので、地図などは全然頭に入ってません。本で読んだ情報が頭に入っているだけで、具体的に何もメモしてこなかったのよね。
看板を発見。もともとはこの赤い色のような形をしている墳丘墓。
全長約 80m で、同時代の墳丘墓の中では最大級。
自然の丘の頂を整えて造られていて、やや歪んだ円形の円丘部は約 50m なんだって。
突出部は、昭和40年代の住宅団地建設で破壊されちゃったそうな。
この階段の先が円丘部なのかな? と思って、上ってみる。
でも違った(笑)
この先は古墳の周りを歩く遊歩道っぽくなっていたけど、当然舗装されてなくて、草木に覆われていてまた蚊に襲われそうな雰囲気だったので撤退。
違う道に行ってみると、お、これは収蔵庫!
某漫画では、此処から龍神石が盗まれたことになってるわw
実際はこの収蔵庫には旋帯文石(せんたいもんせき)が納められています。
建物の横に覗き穴があるらしく、そこから旋帯文石を見ることが出来たようなんだけど、見損ねちゃいました。次回訪れたら絶対に見よう! (やっぱり事前調査不足は否めないねw)
おかやま観光ネットに載っていた写真をお借りしよう。こんな石なんだよ。
石の表面には全面に特殊な旋帯文が施されていて、正面には人間の顔のような彫り込みがあるんだそうな。こういうのは他に例がないみたい。遺跡の発掘調査で、同じ文様が入った小さな石が出てきて、2世紀末頃のものと分かったんだって。
この文様。古代吉備文化財センターで見た特殊器台にみられるものと類似しているとのこと。この文様が弥生時代の吉備の呪術では重要なものだったんだろうなあ。
今こうやってまじまじと文様を見て、倉敷市のホームページに載っている旋帯文石を見ると、波とうず潮にも見えてきちゃった(笑)
蛇(もしくは龍?)を表してるのかもしれないけど、うず潮に見えるw
関門海峡を渡り、特殊な潮流の瀬戸内海を自在に航行した一族。吉備に拠点を置いて製塩、製鉄を始めた一族……なーんて想像しちゃったww
まだまだ妄想の域だけど、その一族の長こそ元祖・吉備津彦命! なんてね^^
長くなったので次回に続きます。
***
不思議な旋帯文。家に帰ってきてからいろいろ調べてみたら、綿花を糸に紡いだ状態をモチーフにしていると考察してる人のサイトも見つけて非常に面白かったです。鬼城山あたりは綿花栽培もおこなわれていたみたい。
言われてみたら岡山って岡山デニムが有名だし、繊維の町でもあるもんね?
古代吉備文化財センターで見た特殊器台 [ふらり旅・イベント]
タクシーで来た岡山県古代吉備文化財センター。
タクシーには待っていてもらって、中を見学してきますっ
入口を入ると、どどーんと鬼ノ城のパネルがありました。
翌日訪れる予定の鬼ノ城。
温羅が造営した古代の山城と言われてます。
翌日、この鬼ノ城を散策したわけだけど……まじで大変な場所でした。
そして東門のポケGOジムに配置したポケモンは 13 日間帰って来ませんでした。こんなところまで、なかなか誰も散策しないよね。散策なんていうレベルの場所じゃなかったもんな^^;
たいていは、左上の丸をつけた西門周辺をうろうろするだけなのかも(笑)
1F の展示室では、県内各地で実施した発掘調査の出土品を公開しています。
真っ先に目に飛び込んできたものは、特殊壺と特殊器台!
岡山に来たら、絶対にこれを見たかったの!!
この特殊器台と特殊壺は、弥生時代後期の終わり頃(約1800年前)の墳丘墓から見つかる土器なの。この特殊器台が、だんだん大きくなっていって、そして文様の少なくなったものがやがて古墳上で使われるようになるんだって。
この特殊器台が特殊器台形埴輪と呼ばれるようになって、円筒埴輪のルーツになるのだ。埴輪のルーツは吉備に在り。
そして、弥生時代に作られていたこの特殊器台、特殊壺は吉備国独特の形なんだけど、大和の箸墓古墳で見つかったのだよ。これは吉備の祭祀形態が大和に取り入れられていたということ。
箸墓古墳に眠る被葬者は、吉備津彦(彦五十狭芹彦命)のお姉さんと言われる倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)。
なんか繋がりを感じるでしょう〜(笑)
箸墓古墳が築造される3世紀後半の段階では、吉備と大和の間に同盟関係が結ばれていた可能性がある証拠となってるのだ。初期のヤマト王権は吉備主導の政治・祭祀体制として誕生した可能性が大きくなっているのです。
(そしてやがて吉備を裏切るというわけw)
ちなみにこの特殊壺と特殊器台は出雲でも出土例があって、調査の結果から吉備で作られて運ばれたようです。出雲とも同盟関係があったのかもしれないね。こっちのほうは、吉備が出雲を苛めるようになるんだけど、それはまた別の話なので今回の記事には書きません ^m^ スサノオが絡んでくるw
6世紀後半くらい(まだ古墳時代)の土井遺跡からは、埴輪窯が2基発見されたんだって。こんな感じの埴輪が焼かれて作られていたんだねえ。
古墳時代後期から飛鳥時代を中心として使われた焼き物の棺、陶棺も展示されていました。
身の底には円筒形の脚複数が付くのが特徴なんだって。
ほんとだ。脚がたくさんある(笑) こんな形のものを見るのは初めてです。
遺体を伸展状態で埋葬するために 2m 前後のものが通常なんだけど、火葬骨をおさめるための長さ 1m にも満たないような小型の陶棺も見つかっているんだそうな。ほほ〜。飛鳥時代くらいになると火葬も出てきていたんだっけね。持統天皇は火葬だもんね。
この陶棺は、九州から東北地方にかけて約700点出土してるんだけど、その8割が岡山県なんだそうな。そして岡山県のなかでも美作(みまさか)地方に多いんだって。
ううう、美作と聞くと……裏歴史好きはウズウズする。
今回は訪れることが出来なかった美作。物部、スサノオ……そっち系の形なんだろうか。妄想しちゃう。次回、美作を訪れることが出来たら、またまた古代史の旅になっちゃうねw
さて、タクシーを待たせてることだし、そろそろ行こう。
パンフレットなどをいろいろ貰って文化財センターをあとにしました。
タクシーに戻って「スマホの電池も無いし、中山茶臼山古墳は諦めます。資料は貰ってきたのでコレで良しとします」と伝えました。
「じゃあ、このあとは吉備津駅でいいのかな」
「はい。お願いします」
「でも吉備津駅だと 1 時間に 1 本しか来ないよ。最終的に何処に行きたいの?」
「岡山駅です」
「それなら同じ JR だけど庭瀬駅のほうがいいよ。あっちなら伯備線もあるから 1時間に 4〜5 本電車が来るんだ。岡山駅までも 2 駅で近いよ」
「そうなんですか。ならそっちでお願いします」
「岡山駅はすぐなんだよ。まあタクシーだと 2〜3,000 円くらいかかっちゃうからね。JR なら数百円だし」
「え? タクシーでそのくらいで岡山駅まで行けるんですか? ならお願いしようかな。待ち合わせ場所なので確実に行っておきたいし」
「え? 岡山駅まで行く?」
土地勘が無いので、距離感がまるで分からないw
庭瀬駅が何処なのかも分からないし、岡山駅がどっちなのかも分からないw
岡山駅まで連れて行ってもらった方が安心かなって思ったのよね。話しやすい運転手さんだったから、2〜3,000 円の距離なら乗っていても苦にならないかなっても思ったのだ。(都内のタクシーの距離感覚だけどw)
そんなわけで、岡山駅までタクシーで行くことに。
でも、このあと会話をしていて違う展開になったのでした。
つづく。
***
カブトムシの New跳馬が旅立ちました。
岡山記事が終わったらきちんと書くけど、なんと 10 月 1 日まで生きてくれましたよー!
リュカ家に来てから 3 ヶ月 12 日生きてくれました。
10 月まで生きた子は初めて。眠ったまま旅立ったようです。
翌 10 月 2 日の早朝、埋葬してきました。
昨日はブログ活動お休みしてました。
今日は遊びに行きますね!
タクシーには待っていてもらって、中を見学してきますっ
入口を入ると、どどーんと鬼ノ城のパネルがありました。
翌日訪れる予定の鬼ノ城。
温羅が造営した古代の山城と言われてます。
翌日、この鬼ノ城を散策したわけだけど……まじで大変な場所でした。
そして東門のポケGOジムに配置したポケモンは 13 日間帰って来ませんでした。こんなところまで、なかなか誰も散策しないよね。散策なんていうレベルの場所じゃなかったもんな^^;
たいていは、左上の丸をつけた西門周辺をうろうろするだけなのかも(笑)
1F の展示室では、県内各地で実施した発掘調査の出土品を公開しています。
真っ先に目に飛び込んできたものは、特殊壺と特殊器台!
岡山に来たら、絶対にこれを見たかったの!!
この特殊器台と特殊壺は、弥生時代後期の終わり頃(約1800年前)の墳丘墓から見つかる土器なの。この特殊器台が、だんだん大きくなっていって、そして文様の少なくなったものがやがて古墳上で使われるようになるんだって。
この特殊器台が特殊器台形埴輪と呼ばれるようになって、円筒埴輪のルーツになるのだ。埴輪のルーツは吉備に在り。
そして、弥生時代に作られていたこの特殊器台、特殊壺は吉備国独特の形なんだけど、大和の箸墓古墳で見つかったのだよ。これは吉備の祭祀形態が大和に取り入れられていたということ。
箸墓古墳に眠る被葬者は、吉備津彦(彦五十狭芹彦命)のお姉さんと言われる倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)。
なんか繋がりを感じるでしょう〜(笑)
箸墓古墳が築造される3世紀後半の段階では、吉備と大和の間に同盟関係が結ばれていた可能性がある証拠となってるのだ。初期のヤマト王権は吉備主導の政治・祭祀体制として誕生した可能性が大きくなっているのです。
(そしてやがて吉備を裏切るというわけw)
ちなみにこの特殊壺と特殊器台は出雲でも出土例があって、調査の結果から吉備で作られて運ばれたようです。出雲とも同盟関係があったのかもしれないね。こっちのほうは、吉備が出雲を苛めるようになるんだけど、それはまた別の話なので今回の記事には書きません ^m^ スサノオが絡んでくるw
6世紀後半くらい(まだ古墳時代)の土井遺跡からは、埴輪窯が2基発見されたんだって。こんな感じの埴輪が焼かれて作られていたんだねえ。
古墳時代後期から飛鳥時代を中心として使われた焼き物の棺、陶棺も展示されていました。
身の底には円筒形の脚複数が付くのが特徴なんだって。
ほんとだ。脚がたくさんある(笑) こんな形のものを見るのは初めてです。
遺体を伸展状態で埋葬するために 2m 前後のものが通常なんだけど、火葬骨をおさめるための長さ 1m にも満たないような小型の陶棺も見つかっているんだそうな。ほほ〜。飛鳥時代くらいになると火葬も出てきていたんだっけね。持統天皇は火葬だもんね。
この陶棺は、九州から東北地方にかけて約700点出土してるんだけど、その8割が岡山県なんだそうな。そして岡山県のなかでも美作(みまさか)地方に多いんだって。
ううう、美作と聞くと……裏歴史好きはウズウズする。
今回は訪れることが出来なかった美作。物部、スサノオ……そっち系の形なんだろうか。妄想しちゃう。次回、美作を訪れることが出来たら、またまた古代史の旅になっちゃうねw
さて、タクシーを待たせてることだし、そろそろ行こう。
パンフレットなどをいろいろ貰って文化財センターをあとにしました。
タクシーに戻って「スマホの電池も無いし、中山茶臼山古墳は諦めます。資料は貰ってきたのでコレで良しとします」と伝えました。
「じゃあ、このあとは吉備津駅でいいのかな」
「はい。お願いします」
「でも吉備津駅だと 1 時間に 1 本しか来ないよ。最終的に何処に行きたいの?」
「岡山駅です」
「それなら同じ JR だけど庭瀬駅のほうがいいよ。あっちなら伯備線もあるから 1時間に 4〜5 本電車が来るんだ。岡山駅までも 2 駅で近いよ」
「そうなんですか。ならそっちでお願いします」
「岡山駅はすぐなんだよ。まあタクシーだと 2〜3,000 円くらいかかっちゃうからね。JR なら数百円だし」
「え? タクシーでそのくらいで岡山駅まで行けるんですか? ならお願いしようかな。待ち合わせ場所なので確実に行っておきたいし」
「え? 岡山駅まで行く?」
土地勘が無いので、距離感がまるで分からないw
庭瀬駅が何処なのかも分からないし、岡山駅がどっちなのかも分からないw
岡山駅まで連れて行ってもらった方が安心かなって思ったのよね。話しやすい運転手さんだったから、2〜3,000 円の距離なら乗っていても苦にならないかなっても思ったのだ。(都内のタクシーの距離感覚だけどw)
そんなわけで、岡山駅までタクシーで行くことに。
でも、このあと会話をしていて違う展開になったのでした。
つづく。
***
カブトムシの New跳馬が旅立ちました。
岡山記事が終わったらきちんと書くけど、なんと 10 月 1 日まで生きてくれましたよー!
リュカ家に来てから 3 ヶ月 12 日生きてくれました。
10 月まで生きた子は初めて。眠ったまま旅立ったようです。
翌 10 月 2 日の早朝、埋葬してきました。
昨日はブログ活動お休みしてました。
今日は遊びに行きますね!
旅の仲間(タイトルは指輪物語のパクリw) [ふらり旅・イベント]
吉備津神社の参拝が終わり、ピンチに立っている私です。
スマホの充電が出来なくなっていて、電池残量は 25% 程度。少し時間が経ったので再度モバイルバッテリーに繋いでみたけどダメでした。
【記事とは関係ないけど、あおを載せてみるw】
情報はスマホに入っているので、それを見ようと思うとさらに電池を使ってしまう。当初の予定では、此処からテクテクと吉備の中山道を歩こうと思っていたけど、そんなことをして万一迷子になってしまったら大変。GPS が無い状態で山の中は危険なので、それは止めよう。しかも今ですら、駅がどっちのほうなのかも分からない(笑)
なにせ地図の読めない方向音痴。スマホの地図で現在地と自分が向いてる方向が表示されないと歩けない私です。それが使えないとなると The END.
境内を出たところに茶屋があったので、そこで落ち着いて考えるか(お腹も空いてきたし)……と思ってふと見ると、タクシー乗り場を発見。呼び出しの電話番号も書いてあります。
こりゃ、タクシーを頼るか。
2 つのタクシー会社の番号が書いてあって、最初に電話をした方は誰も出ませんでした。よく見るとそれは観光タクシーって書いてあったので、もう 1 社の普通のタクシー会社に電話。今度はすぐに出てくれました。
吉備津神社のタクシー乗り場まで来て貰うことにします。
行き先を聞かれたので「中山茶臼山古墳経由で吉備津駅までお願いしたいです」と伝えると、ちょっと「??」という反応でした。
電話を切り待つこと20分強かなあ。ホントに来てくれるのか正直不安だったよ。
タクシーが来て名前を言うと「お一人ですか?」って聞かれたのでそうだと答えました。
タクシーに乗り込むと、「お客さんが言っていた中山なんちゃら古墳、知らないんですよ」というじゃないですか。
「えーっと、このへんなんですけど」と、電池の切れかかったスマホで Google Map を立ち上げて見せます。
「このへんに古墳なんてあったかなあ」
「近くに岡山県の古代吉備文化財センターがあります」
「あ、そこなら分かるよ」
「じゃあ、まずそっちに行ってもらえますか」
こんな感じでこのタクシーのおじちゃんとのプチ旅(?)が始まりました。
*
タクシーが走り始めて、境内から見ていた「吉備の中山みち」に入っていきます。
これが結構な斜面の山道なのよ!
「うわ、こんなにきつい上りなんですね」
「この辺は冬になると、たまに路面が凍って滑ったりして危ないんだよ」
「え! 岡山でもそんなに寒くなるんですか?」
「ここはそこまで酷くないけど、もうちょっと山の方だと雪も降るからね。岡山空港の滑走路はさすがに雪が降っても北国と同じように対応できるようにしてるみたいだけどね」
「私、北海道出身なんで、冬の空港の景色分かりますよー」
「そうなんだ。ボクは新婚旅行で北海道に行ったよ。あのとき北海道の土の色が黒くてビックリしたなあ。もうかなり昔の話だけど」
「北海道は水田じゃなくて畑ですもんね。私は岡山に初めて来たんですけど、水田の景色に感動してたところです」
なーんて感じで話が盛り上がり始めました(笑)
しかし……こんな急勾配な山道を、もしもスマホに異常がなければ歩こうとしていたわけなのだ。
吉備津彦神社から吉備津神社までの道がわりと平坦だったので、こんな感じの道なんだろうって思い込んでいたよ。危なかった。。。もしも徒歩だったら途中でバテて、ペットボトルのお茶は無くなって、周りに何も無くて心細かったに違いないよ^^;
考えてみたら中山茶臼山古墳は、吉備中山の山頂付近にあるわけだし。登山と変わらないんだよね。お気楽気分で歩かないで良かった。。。
タクシーは岡山県古代吉備文化財センターに到着。
此処ももともと訪れる計画だった場所なのだ。
タクシーは此処で待っていてくれるというので、中を見学してくることにします。
この山の何処かに、吉備津彦の墓と言われている中山茶臼山古墳はあるんだろうな。古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の前方後円墳。
雰囲気を味わいたかったけど、この時点で古墳に行くことは既に諦めてました。
中山茶臼山古墳に関するホームページはリーディングリストに入れていたけど、それを見て歩けるのは電池が十分ある状態だったらの話だもんね ^^;
方向音痴の私は、電池の残量を心配する状態で山の中に入っていくほどの度胸は無いです(笑)
この文化財センターを見学したあとは、吉備津駅に行ってもらおう。そしてさっさと岡山駅に行って Wi-Fi が繋がる環境で iPad を使って、岡山駅周辺の見所を検索しようって思っていました。
つづく。
※ 帰宅後きちんと調べてみたら、中山茶臼山古墳は車では行けないみたいでした。
スマホの充電が出来なくなっていて、電池残量は 25% 程度。少し時間が経ったので再度モバイルバッテリーに繋いでみたけどダメでした。
【記事とは関係ないけど、あおを載せてみるw】
情報はスマホに入っているので、それを見ようと思うとさらに電池を使ってしまう。当初の予定では、此処からテクテクと吉備の中山道を歩こうと思っていたけど、そんなことをして万一迷子になってしまったら大変。GPS が無い状態で山の中は危険なので、それは止めよう。しかも今ですら、駅がどっちのほうなのかも分からない(笑)
なにせ地図の読めない方向音痴。スマホの地図で現在地と自分が向いてる方向が表示されないと歩けない私です。それが使えないとなると The END.
境内を出たところに茶屋があったので、そこで落ち着いて考えるか(お腹も空いてきたし)……と思ってふと見ると、タクシー乗り場を発見。呼び出しの電話番号も書いてあります。
こりゃ、タクシーを頼るか。
2 つのタクシー会社の番号が書いてあって、最初に電話をした方は誰も出ませんでした。よく見るとそれは観光タクシーって書いてあったので、もう 1 社の普通のタクシー会社に電話。今度はすぐに出てくれました。
吉備津神社のタクシー乗り場まで来て貰うことにします。
行き先を聞かれたので「中山茶臼山古墳経由で吉備津駅までお願いしたいです」と伝えると、ちょっと「??」という反応でした。
電話を切り待つこと20分強かなあ。ホントに来てくれるのか正直不安だったよ。
タクシーが来て名前を言うと「お一人ですか?」って聞かれたのでそうだと答えました。
タクシーに乗り込むと、「お客さんが言っていた中山なんちゃら古墳、知らないんですよ」というじゃないですか。
「えーっと、このへんなんですけど」と、電池の切れかかったスマホで Google Map を立ち上げて見せます。
「このへんに古墳なんてあったかなあ」
「近くに岡山県の古代吉備文化財センターがあります」
「あ、そこなら分かるよ」
「じゃあ、まずそっちに行ってもらえますか」
こんな感じでこのタクシーのおじちゃんとのプチ旅(?)が始まりました。
*
タクシーが走り始めて、境内から見ていた「吉備の中山みち」に入っていきます。
これが結構な斜面の山道なのよ!
「うわ、こんなにきつい上りなんですね」
「この辺は冬になると、たまに路面が凍って滑ったりして危ないんだよ」
「え! 岡山でもそんなに寒くなるんですか?」
「ここはそこまで酷くないけど、もうちょっと山の方だと雪も降るからね。岡山空港の滑走路はさすがに雪が降っても北国と同じように対応できるようにしてるみたいだけどね」
「私、北海道出身なんで、冬の空港の景色分かりますよー」
「そうなんだ。ボクは新婚旅行で北海道に行ったよ。あのとき北海道の土の色が黒くてビックリしたなあ。もうかなり昔の話だけど」
「北海道は水田じゃなくて畑ですもんね。私は岡山に初めて来たんですけど、水田の景色に感動してたところです」
なーんて感じで話が盛り上がり始めました(笑)
しかし……こんな急勾配な山道を、もしもスマホに異常がなければ歩こうとしていたわけなのだ。
吉備津彦神社から吉備津神社までの道がわりと平坦だったので、こんな感じの道なんだろうって思い込んでいたよ。危なかった。。。もしも徒歩だったら途中でバテて、ペットボトルのお茶は無くなって、周りに何も無くて心細かったに違いないよ^^;
考えてみたら中山茶臼山古墳は、吉備中山の山頂付近にあるわけだし。登山と変わらないんだよね。お気楽気分で歩かないで良かった。。。
タクシーは岡山県古代吉備文化財センターに到着。
此処ももともと訪れる計画だった場所なのだ。
タクシーは此処で待っていてくれるというので、中を見学してくることにします。
この山の何処かに、吉備津彦の墓と言われている中山茶臼山古墳はあるんだろうな。古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の前方後円墳。
雰囲気を味わいたかったけど、この時点で古墳に行くことは既に諦めてました。
中山茶臼山古墳に関するホームページはリーディングリストに入れていたけど、それを見て歩けるのは電池が十分ある状態だったらの話だもんね ^^;
方向音痴の私は、電池の残量を心配する状態で山の中に入っていくほどの度胸は無いです(笑)
この文化財センターを見学したあとは、吉備津駅に行ってもらおう。そしてさっさと岡山駅に行って Wi-Fi が繋がる環境で iPad を使って、岡山駅周辺の見所を検索しようって思っていました。
つづく。
※ 帰宅後きちんと調べてみたら、中山茶臼山古墳は車では行けないみたいでした。
これが吉備の桃太郎のオハナシ:裏歴史バージョン [ふらり旅・イベント]
岡山旅行の続きです。此処は吉備津神社。
長い廻廊を歩いている最中。
この先右に折れる廻廊があります。御竈殿へ通じる廻廊だよ。
此処には吉備津彦(しつこく書くけどホントの名前は彦五十狭芹彦命)に負けて殺された温羅の首が釜の下に埋まっていると云われてます。
今は、この釜の鳴る音で吉凶を占う神事がおこなわれているのですよ。
此処が御竈殿なのかー。もっと立派な場所を想像していたけど違うんだね。
やっぱり負けた方だから、こんな端っこに追いやられているのね。
神事の由来はこんな感じ。
んじゃ、ここから先はリュカの解説入り桃太郎伝説を載せますね。
桃太郎のお話は日本各地にあるけど、此処では岡山の、しかも絵本に一般的に描かれる桃太郎ではなく、日本書紀や郷土資料、歴史家の考察などを合体させた【吉備の桃太郎伝説 〜 温羅 vs 彦五十狭芹彦命】を書きます。みなさんの記憶にある普通の桃太郎とは全く違うよ!
リュカ補足は青字にします。
チョーーー長い文章になるけど、興味のある人はお付き合いくださいマセ。時間のあるときにでも読んで貰えれば。なお、これはあくまでいろんな説あるなかの 1 つですよ。
では、はじまりはじまりー。
***
むかしむかし。
垂仁天皇の時代。(だいたい3世紀)百済から王子が戦いに破れて吉備に渡来してきました。彼と彼の連れてきた技術者集団(7割が鍛錬師と言われる)を吉備の人たちは受け入れました。王子はそのお礼に最新の製鉄技術や造船、製塩技術を人々に伝授しました。王子の名前は温羅(うら)。
王子は新山(にいやま)に山城の造営に取りかかります。朝鮮式の古代山城に倣って標高400メートルの山頂に城を築きました。(旅行翌日に訪れた鬼ノ城。サービスで写真を載せちゃおう)
この地域は現在は総社と呼ばれてますが、古名は「阿曾(あそ)」と言います。九州の「阿蘇」と同じで「明るいところ」という意味です。
九州の阿蘇は噴火で赤々としているのでその名前が生まれましたが、岡山の「阿曾」は野外で製鉄をおこなうため、昼夜赤々と天を焦がしているので、この地名になったと思われます。
温羅は阿曾の首長になりました。
当時の吉備は南山裾まで吉備穴海が入り込み、瀬戸内海航路の中継地点として都に上がる船が航行していました。温羅が来たことで吉備の国はますます繁栄し、温羅は「吉備津彦命」(吉備の港の立派な男の神)と呼ばれるようになりました。
さてさて、そんな吉備の鉄に目を付けたのが大和国です。
じつは吉備国には、大井という一族も居ました。(もちろん他にもいろいろな一族は居る)もしかしたら大井族は阿曾(=温羅)族の活躍を面白く思ってなかったのかもしれません。(そして、もしかしたらそれを利用して大和国は巧く付け入ったのかもしれないね。大井族の娘を彦五十狭芹彦命は妻にしてます)
大和国の大義名分は以下の通り!
「新山(にいやま)に居を構えた温羅は船を略奪して貢ぎ物を奪い、婦女子を略奪し、地元の人々を怖がらせているので退治をしよう!」
そして都から派遣されたのが「四道(しどう)将軍」の一人、彦五十狭芹彦命です。
( ※ 四道将軍 = 大和王権が全国を支配するために任命した、4人の占領軍総司令官のこと)
彦五十狭芹彦命(以下、面倒なのでイサセリ彦と書きます)は吉備の中山に陣を敷き、そして温羅との戦いが始まりました。
イサセリ彦が放った矢は、温羅が放った矢と空中でかちあい、海に落ちてしまいます。(その場所は矢喰宮として残っている)
そこでイサセリ彦は同時に2本の矢を放ちました。1本は温羅の放った矢とかちあいましたが、もう1本の矢が温羅の左目を射貫きました。(製鉄では片目を痛めやすいという象徴と思われる)
温羅はたまらず雉に姿を変えて逃げました。するとイサセリ彦は鷹に変身して追いかけます。
温羅は今度は鯉に化けて川に潜りましたが、イサセリ彦は鵜になって鯉を食い上げました。(鯉喰神社がある)とうとう温羅は降参して、自ら呼ばれていた「吉備津彦命」という名前をイサセリ彦に献上しました。(つまりは、吉備の港の立派な男の神という称号の剥奪だね)
イサセリ彦は以後、吉備津彦命と名乗るようになったのです。
温羅の首は刎ねられ、地中に埋められました。
ところが、この首が大声を上げて唸り続けます。イサセリ彦はお供の犬に首を食べさせガイコツにしましたが、それでも唸り続けます。大きな竈の下に埋めても 13 年も唸り続けたそうです。
困り果てていたある夜、イサセリ彦(もう吉備津彦です)の夢に温羅が現れてこう言いました。
「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。
釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、
わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。
ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」
そのお告げ通りにすると唸り声はおさまり、平和が訪れました。
以後は釜が鳴り響く神事として扱われるようになったそうです。
(唸り続けたのは温羅族の残党が戦っているということだと思われます。イサセリ彦の部下だった犬飼健たちとの戦いが 13 年続いたということ。この戦を終結させるため、温羅と関わりの深かった阿曾の女性を吉備津神社で面倒を見るという契約が結ばれ、今でもこの神事に仕えている女性を阿曾女と言って、代々この阿曾の郷の娘がご奉仕してるとのこと)
***
以上が、桃太郎のお話:裏歴史バージョンです。
まだ、温羅やイサセリ彦が何故化ける必要があったのか分からないし、夢のお告げに出てきた「四民」がどの民を指すのかが謎なんだけどね。
こうして吉備は大和の手に落ち、鉄を奪われ力を奪われ、土地を分割されて歴史の表舞台からは姿を消していくのでした。鬼ノ城のことも記紀には一切記されず、長く沈黙していたのよね。
鬼ノ城のことなんかが初めて記録されるのは室町時代だそうです。
今では、発掘調査も進んで吉備独特の土器なんかが出土して、大和に影響を与えたのは吉備だったと歴史が変わりました。
鬼ノ城も発掘や復元作業は続けられてます。
御竈殿をあとにして、さらに神社境内の端っこまできました。
古い古い狛犬さんが居ましたよ。
多分これは石の狛犬かな。
一番端っこに、本宮社がありました。
地図を見ると「旧社務所」があったので、遥か昔はこっちも賑わっていたのかもしれないね。
本宮社に祀られている面々を見ると、平安時代末期の今様に歌われた名前があります。
「一品聖霊 (いっぽんしょうりょう) 吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人 (かみまろうど) 、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや」
後白河法皇がまとめた『梁塵秘抄』に出てきた怨霊の名前がずらりです。
「北や南の神客人」は北随神門と南随神門に居るけど、他はここに居るのね。諸々調べると徐々にここに合祀されていったみたい。静かに手を合わせてきました。
境内の柵の向こうに吉備の中山への道が続いてます。
この先をずっと行くと吉備津神社公式サイトに書かれている「御陵」に辿り着くんだろうな。御陵は神社に直接確認したら、吉備津彦命の墓と言われる中山茶臼山古墳だという回答を貰いました。
電池が切れかかっているスマホ。そんな状態でこの山の中を入っていくのは危険だよね。
行くのは無理だなあ。。。さて、このあとどうしたもんだろう。
廻廊を戻り、境内を出るまでいろいろ考えました。
つづく。
***
今回紹介したお話は、あくまで、桃太郎伝説に関するものってことで書きました。
本当は温羅がやってきたと言われる時代と、鬼ノ城が造営された時代には隔たりがあります。(鬼ノ城の記事で書くつもり)なので温羅2世、温羅3世って感じで温羅一族複数人の物語かもしれません。
イサセリ彦に関しても、記紀で年代を調べると鬼退治をした年齢が127歳になっちゃうそうな。こちらもまた違う人物がいるんだと思われます。
長い廻廊を歩いている最中。
この先右に折れる廻廊があります。御竈殿へ通じる廻廊だよ。
此処には吉備津彦(しつこく書くけどホントの名前は彦五十狭芹彦命)に負けて殺された温羅の首が釜の下に埋まっていると云われてます。
今は、この釜の鳴る音で吉凶を占う神事がおこなわれているのですよ。
此処が御竈殿なのかー。もっと立派な場所を想像していたけど違うんだね。
やっぱり負けた方だから、こんな端っこに追いやられているのね。
神事の由来はこんな感じ。
んじゃ、ここから先はリュカの解説入り桃太郎伝説を載せますね。
桃太郎のお話は日本各地にあるけど、此処では岡山の、しかも絵本に一般的に描かれる桃太郎ではなく、日本書紀や郷土資料、歴史家の考察などを合体させた【吉備の桃太郎伝説 〜 温羅 vs 彦五十狭芹彦命】を書きます。みなさんの記憶にある普通の桃太郎とは全く違うよ!
リュカ補足は青字にします。
チョーーー長い文章になるけど、興味のある人はお付き合いくださいマセ。時間のあるときにでも読んで貰えれば。なお、これはあくまでいろんな説あるなかの 1 つですよ。
では、はじまりはじまりー。
***
むかしむかし。
垂仁天皇の時代。(だいたい3世紀)百済から王子が戦いに破れて吉備に渡来してきました。彼と彼の連れてきた技術者集団(7割が鍛錬師と言われる)を吉備の人たちは受け入れました。王子はそのお礼に最新の製鉄技術や造船、製塩技術を人々に伝授しました。王子の名前は温羅(うら)。
王子は新山(にいやま)に山城の造営に取りかかります。朝鮮式の古代山城に倣って標高400メートルの山頂に城を築きました。(旅行翌日に訪れた鬼ノ城。サービスで写真を載せちゃおう)
この地域は現在は総社と呼ばれてますが、古名は「阿曾(あそ)」と言います。九州の「阿蘇」と同じで「明るいところ」という意味です。
九州の阿蘇は噴火で赤々としているのでその名前が生まれましたが、岡山の「阿曾」は野外で製鉄をおこなうため、昼夜赤々と天を焦がしているので、この地名になったと思われます。
温羅は阿曾の首長になりました。
当時の吉備は南山裾まで吉備穴海が入り込み、瀬戸内海航路の中継地点として都に上がる船が航行していました。温羅が来たことで吉備の国はますます繁栄し、温羅は「吉備津彦命」(吉備の港の立派な男の神)と呼ばれるようになりました。
さてさて、そんな吉備の鉄に目を付けたのが大和国です。
じつは吉備国には、大井という一族も居ました。(もちろん他にもいろいろな一族は居る)もしかしたら大井族は阿曾(=温羅)族の活躍を面白く思ってなかったのかもしれません。(そして、もしかしたらそれを利用して大和国は巧く付け入ったのかもしれないね。大井族の娘を彦五十狭芹彦命は妻にしてます)
大和国の大義名分は以下の通り!
「新山(にいやま)に居を構えた温羅は船を略奪して貢ぎ物を奪い、婦女子を略奪し、地元の人々を怖がらせているので退治をしよう!」
そして都から派遣されたのが「四道(しどう)将軍」の一人、彦五十狭芹彦命です。
( ※ 四道将軍 = 大和王権が全国を支配するために任命した、4人の占領軍総司令官のこと)
彦五十狭芹彦命(以下、面倒なのでイサセリ彦と書きます)は吉備の中山に陣を敷き、そして温羅との戦いが始まりました。
イサセリ彦が放った矢は、温羅が放った矢と空中でかちあい、海に落ちてしまいます。(その場所は矢喰宮として残っている)
そこでイサセリ彦は同時に2本の矢を放ちました。1本は温羅の放った矢とかちあいましたが、もう1本の矢が温羅の左目を射貫きました。(製鉄では片目を痛めやすいという象徴と思われる)
温羅はたまらず雉に姿を変えて逃げました。するとイサセリ彦は鷹に変身して追いかけます。
温羅は今度は鯉に化けて川に潜りましたが、イサセリ彦は鵜になって鯉を食い上げました。(鯉喰神社がある)とうとう温羅は降参して、自ら呼ばれていた「吉備津彦命」という名前をイサセリ彦に献上しました。(つまりは、吉備の港の立派な男の神という称号の剥奪だね)
イサセリ彦は以後、吉備津彦命と名乗るようになったのです。
温羅の首は刎ねられ、地中に埋められました。
ところが、この首が大声を上げて唸り続けます。イサセリ彦はお供の犬に首を食べさせガイコツにしましたが、それでも唸り続けます。大きな竈の下に埋めても 13 年も唸り続けたそうです。
困り果てていたある夜、イサセリ彦(もう吉備津彦です)の夢に温羅が現れてこう言いました。
「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。
釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、
わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。
ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」
そのお告げ通りにすると唸り声はおさまり、平和が訪れました。
以後は釜が鳴り響く神事として扱われるようになったそうです。
(唸り続けたのは温羅族の残党が戦っているということだと思われます。イサセリ彦の部下だった犬飼健たちとの戦いが 13 年続いたということ。この戦を終結させるため、温羅と関わりの深かった阿曾の女性を吉備津神社で面倒を見るという契約が結ばれ、今でもこの神事に仕えている女性を阿曾女と言って、代々この阿曾の郷の娘がご奉仕してるとのこと)
***
以上が、桃太郎のお話:裏歴史バージョンです。
まだ、温羅やイサセリ彦が何故化ける必要があったのか分からないし、夢のお告げに出てきた「四民」がどの民を指すのかが謎なんだけどね。
こうして吉備は大和の手に落ち、鉄を奪われ力を奪われ、土地を分割されて歴史の表舞台からは姿を消していくのでした。鬼ノ城のことも記紀には一切記されず、長く沈黙していたのよね。
鬼ノ城のことなんかが初めて記録されるのは室町時代だそうです。
今では、発掘調査も進んで吉備独特の土器なんかが出土して、大和に影響を与えたのは吉備だったと歴史が変わりました。
鬼ノ城も発掘や復元作業は続けられてます。
御竈殿をあとにして、さらに神社境内の端っこまできました。
古い古い狛犬さんが居ましたよ。
多分これは石の狛犬かな。
一番端っこに、本宮社がありました。
地図を見ると「旧社務所」があったので、遥か昔はこっちも賑わっていたのかもしれないね。
本宮社に祀られている面々を見ると、平安時代末期の今様に歌われた名前があります。
「一品聖霊 (いっぽんしょうりょう) 吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人 (かみまろうど) 、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや」
後白河法皇がまとめた『梁塵秘抄』に出てきた怨霊の名前がずらりです。
「北や南の神客人」は北随神門と南随神門に居るけど、他はここに居るのね。諸々調べると徐々にここに合祀されていったみたい。静かに手を合わせてきました。
境内の柵の向こうに吉備の中山への道が続いてます。
この先をずっと行くと吉備津神社公式サイトに書かれている「御陵」に辿り着くんだろうな。御陵は神社に直接確認したら、吉備津彦命の墓と言われる中山茶臼山古墳だという回答を貰いました。
電池が切れかかっているスマホ。そんな状態でこの山の中を入っていくのは危険だよね。
行くのは無理だなあ。。。さて、このあとどうしたもんだろう。
廻廊を戻り、境内を出るまでいろいろ考えました。
つづく。
***
今回紹介したお話は、あくまで、桃太郎伝説に関するものってことで書きました。
本当は温羅がやってきたと言われる時代と、鬼ノ城が造営された時代には隔たりがあります。(鬼ノ城の記事で書くつもり)なので温羅2世、温羅3世って感じで温羅一族複数人の物語かもしれません。
イサセリ彦に関しても、記紀で年代を調べると鬼退治をした年齢が127歳になっちゃうそうな。こちらもまた違う人物がいるんだと思われます。
岡山:吉備津神社で起こったトラブル [ふらり旅・イベント]
吉備津神社参拝中。この廻廊の美しさにうっとり^^
この廻廊は地面を掘削しないで、自然の地形に沿って立っているんだって。
だから廻廊はまっすぐ平らじゃなく、美しいカーブを描いてるんだねえ。
緩やかに下りながら、最初の社(やしろ)「一童社」に到着したときにそれは起こったのだ。
一童社は菅原道真と天鈿女神(アメノウズメ)を祀っているんだって。
アメノウズメと猿田彦は一緒に居ないんだね〜なんて思いながら参拝して、そろそろスマホを充電しなくちゃと思ったのだ。
この旅行の時はまだ古い iPhone を持っていたので、フル充電しても 1.5 時間で電池はヤバイ状態になります。だから今回の旅ではモバイルバッテリーを 2 個持ってきたもんね^^
スマホを見ると電池はもう 30% を切ってる。
モバイルバッテリーからケーブルを繋ぐと……
え?(汗)
うそでしょ(滝汗)
いやいや、慌てるな。このメッセージが出てきたことは過去に何度もある!
まずは他のケーブルに交換してみよう。替えのケーブルを出して挿してみて……やっぱり同じ警告画面。。。
それじゃ、もう1つのモバイルバッテリーで試してみよう!
炎天下の中、若干焦りつつ別のモバイルバッテリーで同じ事を繰り返してみるも、警告画面が出るだけで充電出来ない。
本体に液体が入るわけないのよ。だってこんなに良い天気。
……天気が良すぎて、私の汗が偶然入ったとか?(滝汗)
家でこの警告画面が出たときは、スマホをしばらく放置しておいてるの。そしたら元に戻ってる。
でも此処は旅先。まして一人旅。スマホの充電が出来なくて電池が切れたら終わりだ(焦)
こうなったら今は緊急時ってことで、無理矢理充電だー!
警告画面の「緊急時につき無視」を思いきって選んでみたよ。でもね、2〜3 分充電はされたけど、そのあとは充電されなくなりました orz...
(すでに新しい iPhone は注文していて、この iPhone は下取りに出す予定。水濡れ原因で下取り額が下がったらどうしよう。いやいや、それ以前に新しい iPhone にデータ移行が出来ないんじゃないか? と、脳内ではかなり焦っていた)
スマホがまだ生きてるうちに相方クンに連絡しておかねば! と思って LINE を送るとすぐに反応してくれて助かったよ。
最終的には 16 時に JR 岡山駅中央改札で待ち合わせ!ということだけは決めて、連絡を控えることにしました。時々スマホの GPS で居場所はチェックしてくれるらしい。少し安心ww
吉備津神社に居る間は電池節約のため、機内モードにしておきます。
ここから先の写真は iPad で。持っている iPad はセルラーモデルじゃないので、こういうときはカメラとしてしか役に立たないね ^^;
少なくとも境内には人が居る。なんとかなるよと思いながら神社参拝を続けるのです!
吉備国の地主神を祀るという「岩山宮」へも参拝。この辺りは中山古墳という古墳なんだって。だから上りの階段なのね。境内に古墳があるなんて、やっぱりすごい。
石段を上っていると……蚊が凄い^^;
ううう、、ごめんなさい!これ以上は無理ですっ
蚊に負けたよー!
岩山宮に参拝するには虫の居ない時期が良さそうだね。それか持ち運びできる蚊取り器持参?
神様ごめんなさい。辿り着けません (>人<) 階段の途中で手を合わせました。
階段脇。古墳らしき、こんもりしてるところに目を凝らすと、真ん中辺に祠があるな。
岩山宮に祀られているのは、建日方別(たけひかたわけ)という神様。大きな岩をご神体にしているんだって。吉備津五所明神に数えられるそうな。
【吉備津五所明神】
正宮 主神・大吉備津彦命
本宮 吉備津彦の父、孝霊天皇
新宮 吉備武彦命(吉備真備などを生んだ「吉備臣の祖」の父)
内宮 吉備津彦命の妃、百田弓矢日売命
岩山宮 地主神・建日方別
昨日の記事に書いた、梁塵秘抄の『一品聖霊吉備津宮』の歌に出てくる「隼人崎」がこの岩山宮のことではないか? という考えもあるようです。が、実際にその場に辿り着けなかったので、私はなんとも言えない orz...
「隼人」は朝廷にまつろわない者たちのことを言うけど、九州の隼人族の意味合いが私の中では強いな。もっとこのへんも勉強しないとなぁ〜。
*
次回の記事はリュカ流『桃太郎伝説』を書きます。
ちょーーーー文章だらけなので、気が向いたら読んでね(笑)
この廻廊は地面を掘削しないで、自然の地形に沿って立っているんだって。
だから廻廊はまっすぐ平らじゃなく、美しいカーブを描いてるんだねえ。
緩やかに下りながら、最初の社(やしろ)「一童社」に到着したときにそれは起こったのだ。
一童社は菅原道真と天鈿女神(アメノウズメ)を祀っているんだって。
アメノウズメと猿田彦は一緒に居ないんだね〜なんて思いながら参拝して、そろそろスマホを充電しなくちゃと思ったのだ。
この旅行の時はまだ古い iPhone を持っていたので、フル充電しても 1.5 時間で電池はヤバイ状態になります。だから今回の旅ではモバイルバッテリーを 2 個持ってきたもんね^^
スマホを見ると電池はもう 30% を切ってる。
モバイルバッテリーからケーブルを繋ぐと……
え?(汗)
うそでしょ(滝汗)
いやいや、慌てるな。このメッセージが出てきたことは過去に何度もある!
まずは他のケーブルに交換してみよう。替えのケーブルを出して挿してみて……やっぱり同じ警告画面。。。
それじゃ、もう1つのモバイルバッテリーで試してみよう!
炎天下の中、若干焦りつつ別のモバイルバッテリーで同じ事を繰り返してみるも、警告画面が出るだけで充電出来ない。
本体に液体が入るわけないのよ。だってこんなに良い天気。
……天気が良すぎて、私の汗が偶然入ったとか?(滝汗)
家でこの警告画面が出たときは、スマホをしばらく放置しておいてるの。そしたら元に戻ってる。
でも此処は旅先。まして一人旅。スマホの充電が出来なくて電池が切れたら終わりだ(焦)
こうなったら今は緊急時ってことで、無理矢理充電だー!
警告画面の「緊急時につき無視」を思いきって選んでみたよ。でもね、2〜3 分充電はされたけど、そのあとは充電されなくなりました orz...
(すでに新しい iPhone は注文していて、この iPhone は下取りに出す予定。水濡れ原因で下取り額が下がったらどうしよう。いやいや、それ以前に新しい iPhone にデータ移行が出来ないんじゃないか? と、脳内ではかなり焦っていた)
スマホがまだ生きてるうちに相方クンに連絡しておかねば! と思って LINE を送るとすぐに反応してくれて助かったよ。
最終的には 16 時に JR 岡山駅中央改札で待ち合わせ!ということだけは決めて、連絡を控えることにしました。時々スマホの GPS で居場所はチェックしてくれるらしい。少し安心ww
吉備津神社に居る間は電池節約のため、機内モードにしておきます。
ここから先の写真は iPad で。持っている iPad はセルラーモデルじゃないので、こういうときはカメラとしてしか役に立たないね ^^;
少なくとも境内には人が居る。なんとかなるよと思いながら神社参拝を続けるのです!
吉備国の地主神を祀るという「岩山宮」へも参拝。この辺りは中山古墳という古墳なんだって。だから上りの階段なのね。境内に古墳があるなんて、やっぱりすごい。
石段を上っていると……蚊が凄い^^;
ううう、、ごめんなさい!これ以上は無理ですっ
蚊に負けたよー!
岩山宮に参拝するには虫の居ない時期が良さそうだね。それか持ち運びできる蚊取り器持参?
神様ごめんなさい。辿り着けません (>人<) 階段の途中で手を合わせました。
階段脇。古墳らしき、こんもりしてるところに目を凝らすと、真ん中辺に祠があるな。
岩山宮に祀られているのは、建日方別(たけひかたわけ)という神様。大きな岩をご神体にしているんだって。吉備津五所明神に数えられるそうな。
【吉備津五所明神】
正宮 主神・大吉備津彦命
本宮 吉備津彦の父、孝霊天皇
新宮 吉備武彦命(吉備真備などを生んだ「吉備臣の祖」の父)
内宮 吉備津彦命の妃、百田弓矢日売命
岩山宮 地主神・建日方別
昨日の記事に書いた、梁塵秘抄の『一品聖霊吉備津宮』の歌に出てくる「隼人崎」がこの岩山宮のことではないか? という考えもあるようです。が、実際にその場に辿り着けなかったので、私はなんとも言えない orz...
「隼人」は朝廷にまつろわない者たちのことを言うけど、九州の隼人族の意味合いが私の中では強いな。もっとこのへんも勉強しないとなぁ〜。
*
次回の記事はリュカ流『桃太郎伝説』を書きます。
ちょーーーー文章だらけなので、気が向いたら読んでね(笑)