楯築遺跡の円丘部 [ふらり旅・イベント]
タクシーの運転手さんとの会話から、ひょんなことでホントは訪れたかったけど諦めていた楯築(たてつき)遺跡に来ることが出来ました。
吉備の桃太郎伝説では、この楯築遺跡にある巨石を楯にして、大和の吉備津彦(イサセリ彦ねw)は矢を放ったと伝えられてます。ホントかどうかは知らんけどww
楯築遺跡の円丘部は何処だ〜? とウロウロしていると、なんだか金網に覆われた巨大な建物(あとで調べたら給水塔だった)の奥に何やら盛り上がった空間がある。
おそるおそる行ってみると……あったー!
楯築という名前の由来になっていると思われる巨石たちです。
円丘部は径約 50m、高さ 5m。墳丘頂部に 5 個の巨石が立っていて、墳丘斜面には円礫帯がめぐっているとのこと。
【 ※ 円礫 = 超簡単に言うと直径 2mm 以上の粒】
何らかの祭祀を行う場として作られたと考えられてます。そしてこの巨石自体は邪馬台国と同時代に建てられたものでは? とのこと。
この祠があるあたりの地下約 1.5m から埋葬の跡が見つかっているんだそうな。
木郭木棺墓が見つかっていて、木棺の底には総重量 32kg を越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められていたんだって。
その上には鉄剣が1口と勾玉や管玉,ガラス製小玉などの玉類が副葬されていたとのこと。
水銀朱かぁ〜。防腐の目的はあるだろうけど、それだけじゃない呪術的なものも感じるね。(墳丘墓内ではもう1基、埋葬施設が確認されています)
円丘部の中央付近には、おびただしい数の円礫が堆積していて、この中には特殊器台などの土器類や旋帯文石(せんたいもんせき)と同じ文様をもつ小形の石などがあったそうな。
埋葬者の遺骨はなくて、歯の欠片が 2 個あっただけ。
埋葬者は何処に行っちゃったのかなあ。
円丘部に置かれた巨石も、おそらく1つ1つに意味があったんだろうね。
私には想像出来ないけど……
真っ二つに割られた石もある。
こんなふうに石を割ることにも意味があるんだろうと、考察している記事も見つけましたわ。
この墳丘墓に弥生時代の権力者が眠っていたのかぁ〜。
突出した部分が宅地開発で壊されてしまったのは残念だな。
検索していて、団地造成事業の裏話(?)的なことが書かれていたサイトも見つけました。リンク先を載せるのは控えるけど、当時は考古学上、重要な遺跡であるという認識が低かったみたいです。残念過ぎる。実際に発掘調査に携わっていた人たちは悔しい思いをしたんじゃないのかなあ。
円丘部に立って、せめて弥生時代に思いを馳せよう。
ぼんやり巨石を眺めていたんだけどね、、、
でもね、なんだか……ぞくぞくする石もあるんだけど、場所によってはお金持ちの家の庭園風で……
なんだろう。古代の風景をあまり感じられないところもある。
スピリチュアルなことよりも歴史に興味があるから、あまりこういうことは書きたくないんだけど(パワースポットって言い方も好きじゃない)、心の深いところにちょっと違和感があってね。。。
あまりにも天気が良すぎて巨石に日の光がバンバン当たってるから、余計に庭園の石みたいに感じちゃうのかしら。遺跡を見るなら木々の葉が落ちてる季節に見た方が良いと言ってる人も居ることに少し納得。この生い茂った木々が妙に庭園チックな空気を醸し出してる?(笑)
気になったので家に帰ってからちょいと調べてみたら、発掘調査や公園整備の都合上、巨石の殆どは埋め替えられてるみたい。石によっては、傾いていたものを垂直に立て直したりしているそうな。
なるほど、だから庭園の巨石みたいに見えるのかも^^;
弥生時代の祭祀がおこなわれていたときとは姿が変わっているんだね。
妙に納得しました(笑)
このへんのことを詳しく書いた、発掘調査に携わった人たちが刊行した本が国立国会図書館にあることはリサーチ済みなので、そのうち閲覧しに行ってこようと思ってます^^
それでもこの墳丘墓からの出土品は、歴史上非常に重要。
棺にあったはずの遺骨は何処にいったのか。歯の欠片が 2 個だけ残っていたのは何故なのか。なんだかいろいろ妄想しちゃうw
長くなるから書かないけどww
もっともっと調べさせてくださいねー! と、祠に声をかけて楯築遺跡をあとにしました。
動画も撮ってきたので載せておきます。(風などの音あり16秒)
ほんっと来ることが出来て良かった。
現地の雰囲気、肌で感じられて良かったですよぉー^^
吉備の桃太郎伝説では、この楯築遺跡にある巨石を楯にして、大和の吉備津彦(イサセリ彦ねw)は矢を放ったと伝えられてます。ホントかどうかは知らんけどww
楯築遺跡の円丘部は何処だ〜? とウロウロしていると、なんだか金網に覆われた巨大な建物(あとで調べたら給水塔だった)の奥に何やら盛り上がった空間がある。
おそるおそる行ってみると……あったー!
楯築という名前の由来になっていると思われる巨石たちです。
円丘部は径約 50m、高さ 5m。墳丘頂部に 5 個の巨石が立っていて、墳丘斜面には円礫帯がめぐっているとのこと。
【 ※ 円礫 = 超簡単に言うと直径 2mm 以上の粒】
何らかの祭祀を行う場として作られたと考えられてます。そしてこの巨石自体は邪馬台国と同時代に建てられたものでは? とのこと。
この祠があるあたりの地下約 1.5m から埋葬の跡が見つかっているんだそうな。
木郭木棺墓が見つかっていて、木棺の底には総重量 32kg を越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められていたんだって。
その上には鉄剣が1口と勾玉や管玉,ガラス製小玉などの玉類が副葬されていたとのこと。
水銀朱かぁ〜。防腐の目的はあるだろうけど、それだけじゃない呪術的なものも感じるね。(墳丘墓内ではもう1基、埋葬施設が確認されています)
円丘部の中央付近には、おびただしい数の円礫が堆積していて、この中には特殊器台などの土器類や旋帯文石(せんたいもんせき)と同じ文様をもつ小形の石などがあったそうな。
埋葬者の遺骨はなくて、歯の欠片が 2 個あっただけ。
埋葬者は何処に行っちゃったのかなあ。
円丘部に置かれた巨石も、おそらく1つ1つに意味があったんだろうね。
私には想像出来ないけど……
真っ二つに割られた石もある。
こんなふうに石を割ることにも意味があるんだろうと、考察している記事も見つけましたわ。
この墳丘墓に弥生時代の権力者が眠っていたのかぁ〜。
突出した部分が宅地開発で壊されてしまったのは残念だな。
検索していて、団地造成事業の裏話(?)的なことが書かれていたサイトも見つけました。リンク先を載せるのは控えるけど、当時は考古学上、重要な遺跡であるという認識が低かったみたいです。残念過ぎる。実際に発掘調査に携わっていた人たちは悔しい思いをしたんじゃないのかなあ。
円丘部に立って、せめて弥生時代に思いを馳せよう。
ぼんやり巨石を眺めていたんだけどね、、、
でもね、なんだか……ぞくぞくする石もあるんだけど、場所によってはお金持ちの家の庭園風で……
なんだろう。古代の風景をあまり感じられないところもある。
スピリチュアルなことよりも歴史に興味があるから、あまりこういうことは書きたくないんだけど(パワースポットって言い方も好きじゃない)、心の深いところにちょっと違和感があってね。。。
あまりにも天気が良すぎて巨石に日の光がバンバン当たってるから、余計に庭園の石みたいに感じちゃうのかしら。遺跡を見るなら木々の葉が落ちてる季節に見た方が良いと言ってる人も居ることに少し納得。この生い茂った木々が妙に庭園チックな空気を醸し出してる?(笑)
気になったので家に帰ってからちょいと調べてみたら、発掘調査や公園整備の都合上、巨石の殆どは埋め替えられてるみたい。石によっては、傾いていたものを垂直に立て直したりしているそうな。
なるほど、だから庭園の巨石みたいに見えるのかも^^;
弥生時代の祭祀がおこなわれていたときとは姿が変わっているんだね。
妙に納得しました(笑)
このへんのことを詳しく書いた、発掘調査に携わった人たちが刊行した本が国立国会図書館にあることはリサーチ済みなので、そのうち閲覧しに行ってこようと思ってます^^
それでもこの墳丘墓からの出土品は、歴史上非常に重要。
棺にあったはずの遺骨は何処にいったのか。歯の欠片が 2 個だけ残っていたのは何故なのか。なんだかいろいろ妄想しちゃうw
長くなるから書かないけどww
もっともっと調べさせてくださいねー! と、祠に声をかけて楯築遺跡をあとにしました。
動画も撮ってきたので載せておきます。(風などの音あり16秒)
ほんっと来ることが出来て良かった。
現地の雰囲気、肌で感じられて良かったですよぉー^^